霧島の神話と歴史

霧島

霧島市の霧島を中心とした地区には、様々な不思議な現象が起こると言われています。
それを「霧島七不思議現象」と呼んでいます。

また、霧島には「天孫降臨」を始めとする神話があり、太古の時代から続く歴史もあります。
それらの中から、キリシマンが次の9つのことをご紹介しましょう。

1.霧島七不思議伝説
2.天孫降臨神話
3.大浪池伝説
4.山ケ野金山物語
5.和氣神社
6.狭名田の長田伝説
7.猿田彦神社
8.坂本龍馬のハネムーン
9.龍馬・お龍日本最初の新婚旅行の地:霧島市

1.霧島七不思議伝説

蒔かずの種

霧島地区の山中や竹やぶに、自然の陸稲が生えることがあると言われています。
これを「蒔かずの種」と呼んでいます。

これは、「天孫降臨」のときに、高天原から持ってきた種子が残っていて、山の中で自然に育ったものだと言い伝えられています。

文字岩

霧島神宮から西に2kmほど離れた山の中に「文字岩」と呼ばれる岩があります。
その岩の大きさは、10立方メートルほどの岩で、真ん中で割れています。

割れた隙間は、10cmほどです。
その隙間の中をのぞくと、文字が彫られているのが見えます。

人の力では動かすことができない大きな岩に、どうして文字が彫られたのでしょうか?
不思議ですね~!

※ 岩の隙間は暗くて見えにくいので、懐中電灯などを持って行ってくださいね。

亀石

霧島神宮の旧参道の中ほどに、亀にそっくりの自然の岩があります。
この岩を「亀石」と呼んでいます。

また、この坂を「亀石坂」と呼んでいます。

風穴

霧島神宮の旧参道に「風穴」と呼ばれる岩穴があります。
以前は、この岩穴からいつも風が吹き出ていて、不思議がられていました。
何でも、極微弱な気流だったそうです。

昔は、この岩穴の上に石造りの観音様が安置されていたそうです。

現在は、風は出ていませんが、霧島の山中ではあちらこちらで似たような現象が見られます。

御手洗川

霧島神宮の西方250メートルほどのところに、下の岩穴から湧き出る小川があります。
11月から4月頃の間は、ほとんど枯れています。

しかし、5月頃から非常な勢いで大量の水が湧き出てきます。
このときは、魚もいっしょに湧き出てくると言われています。

水質は清明で、天孫降臨の際、高天原から持ってきた「真名井の水」が混ざっていると伝えられています。

両度川

霧島神宮の西方300メートルほどのところに「両度川」と呼ばれる川があります。

両度川は、毎年6月頃から流れ出し、8・9月頃には枯れてしまいます。

この間、10日も水が流れたかと思いと、今度はまったく乾いてしまいます。
そして、数日経つとまた流れ出します。
川は小さく短いのですが、水は極めて清く、量も多いのです。

下流は滝になり、霧島川に落ち込みます。

両度川は、毎年同じ時期に決まって二度流れるので「両度川」という名が付けられたそうです。

夜中の神楽

「神楽(かぐら)」とは、神前で行う音楽のことです。

昔、霧島神宮が現在の地に遷宮のとき、深夜に社殿の奥で神楽が高く鳴り響いたそうです。
そのときは、神官・僧侶のほか一般の人まで神楽を聞いたそうです。

今でもときどき、深夜にかすかに神楽のような物音がするそうです。

真偽のほどは分かりませんが、久しい間、霧島七不思議現象の一つに数えられています。

「天孫降臨」の地、霧島ならではの七不思議現象ですね。

2.天孫降臨伝説

はるか昔のこと、神々がこの世を治めていたという神話の時代がありました。

 

神々が天上界の「天の浮橋」から下をのぞくと、霧にけむる海のなかに島のようなものが見えました。
神々は、一本の鉾を取り出すと、その島にしるしをつけました。

それが「霧島山」の名の由来だと言われています。

そのとき、神々が逆さに落とした鉾は、見事に山の頂に突き刺さりました。
今も高千穂の山頂に残る「天の逆鉾」は、そのときのものだと言われています。
(写真は高千穂登山口のビジターセンターに展示されているものです。)

 

あるとき、天照大神(アマテラスオオミカミ)の神勅を受けて、孫神の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が「三種の神器」を手に、7人の神様と道案内の猿田彦命(サルタヒコノミコト)とともに、高天原(タカマガハラ)から地上に降り立ちます。

天上界から神が地上に降り立ったと言われる「天孫降臨」ですね。

日本の建国神話とその歴史が始まったのは、この高千穂の「天孫降臨」から始まったのです。

神代の世界については、「古事記について」で詳細に書いています。

是非、お読みくださいね!(少し長いですよ~!)

「古事記について」 ⇨ こちらからどうぞ…! 

3.大浪池伝説

今は昔、この池のふもとに庄屋がありました。
村一番のお金持ちで、何不自由はありませんでしたが、年寄った夫婦には子どもがいませんでした。

その年寄った夫婦は相談して、お山の神様に願をかけました。
すると、まもなく妻は身ごもり、美しい女の子を産みました。
夫婦は、目の中に入れても痛くないほど可愛がって育てました。
その女の子の名前を「お浪」と付けました。

お浪は、器量も心も清らかで美しく、誰からも可愛がられ、日ごとに美しさを増していきました。
村の人々は、女神さまの生まれ変わりだと語り合っていました。
しとやかなお浪の所作は、まるでお姫様のようでした。

やがて、お浪も18歳の春になりました。
美しく気立てのやさしいお浪には、あちらこちらから結婚の申し込みがありました。

しかし、お浪は結婚の話を両親から聞くたびに、寂しそうにほほえむだけでした。
両親の心遣いを見るたびに、お浪は泣くよりほかにありません。
次第にお浪は、沈んだ乙女になってしまいました。

やがて、お浪は病気になってしまいました。
夫婦は、慌てふためき、お医者さんだのお薬だのと言って騒ぎ出しましたが、お浪に効果はありませんでした。
お浪の美しかった姿は、見る影もなくやつれていきました。

そして、ある夜更けに、お浪は「山の奥へ行ってみたい」といいました。
庄屋夫婦は、思いとどまるように言い聞かせますが、お浪はどうしても聞き入れてくれません。
しばらくして、二つの黒い影が山の方へ登っていきました。
もの淋しい林をさまよって、やがて池のほとりにやってきました。

突然、お浪の瞳が輝き、そして父親の手を振り切るが早いか、ザブンと池の中に飛び込んでしまいました。
後にはかすかに小波が残るばかり…。

青黒い水は、何事もなかったように、もとの静寂に戻りました。
夜が明け、庄屋は池のほとりを狂い歩きました。
お浪は、二度と姿を見せることはありませんでした。

実は、お浪はこの池に住む竜王の化身だったのです。
庄屋夫婦の必死の願いに感じて、しばらくの間、庄屋夫婦の娘になっていたのでした。

それから、この池を「お浪の池」と呼ぶようになりました。
そして、いつしか「大浪の池」と呼ばれるようになったそうです。

4.山ケ野金山物語

金山川を下流とする宮之城の川の中を、久通というお侍さんが下を見ながら歩いていました。
すると、水の中で何やら光るものが見えました。
「もしかすると金かもしれない」とはやる心を抑えながら、水の中に手を入れて、その光る石を取り出しました。
石には、キラキラ光るものがたくさんついていました。

久通は、「金だ!やった~!」と飛び上がって大喜びしたそうです。
久通は、その金鉱を懐に忍ばせて、家路につきました。

寛永17年(1640年)のことです。
それが、山ケ野金山の歴史の始まりでした。

永野から山ケ野までの12キロメートル四方全域を柵で囲み、日本全国から金を掘る人を2万人も集めました。
それからは、山を崩し岩を割る音が昼夜を問わず響き渡ったそうです。
そして、山ケ野に33町、永野に10町もの町ができました。

「金山万覚」(※)によると、1万2千人ほどだと伝えられています。

山には、金山奉行のもとに物・山・町の三奉行のほか、それぞれの役所が並び、50数条の掟などが定められました。

金脈を追うにつれ、作業が困難になっていき、当時の遅れた技術では大事な金を取り逃したこともあったようです。
硬い岩をつるはしで砕き、一日中穴の中で岩を掘り、砕いた岩を竹かごの中に入れて、坑の外に運び出していました。
その穴も狭くて、人がやっと通れるくらいのものでした。
ローソクの火を頼りにした穴の中の仕事は、一日掘っても30cmにも及びませんでした。
おまけに、砕いた石の粉で呼吸をするのも困難で、病気になったり、死んでしまったり、逃げ出したりする人も多かったようです。

「何かいい方法はないだろうか?犠牲者を少なくする手段はないだろうか?」
迷った末に、島津氏は西洋の進んだ技術を学ぶために、長崎に人を遣わし、オランダ人から欧州の発掘法を学んだそうです。
その中に、新兵器として、電気爆破法がありました。

明治10年に、20数万円もの資金を投じて、フランスから鉱山技師ポール・オジエを招き、新式による通路・堅坑を作り、水力や蒸気力を利用するなどして、さらに改良を加えられていきました。

そのおかげで、病気になったり、死んでしまったり、けがをしたりする人は激減し、生活も向上したそうです。

昭和33年、300年余り続いた山ケ野金山は幕を閉じました。

※ 「金山万覚」:富島伝右衛門、貞享2年(1684年)頃の終筆。 

5.和氣神社

和氣神社は、牧園町下中津川にあり、和気清麻呂(わけのきよまろ)公を祀っています。

和気清麻呂は、奈良時代末期から平安時代初期にかけて国の官僚として活躍した人物です。

769年、称徳天皇の時代、僧侶でありながら朝廷に仕え、大きな権力を持つ道鏡という僧がいました。
ある日、道鏡にへつらう者が宇佐八幡のお告げであるとして、「道鏡を次の天皇にすれば、国が穏やかに治まる」と称徳天皇に申し出ました。
称徳天皇は、この神託を確認するため、和気清麻呂を宇佐八幡宮に遣わしました。

道鏡は、和気清麻呂が都を発つとき「自分のために計らえば高い官位を与える」と言って、味方にしようとしました。
しかし、清麻呂は忠義の心が深く、出世のために志を動かすような人ではありませんでした。

宇佐から戻った清麻呂は、「わが国は、始まって以来、君(※1)と臣(※2)の別が定まっている。臣を君にすべきではない。無道のものは早く排除すべき」と当初の神託と正反対のお告げを持ち帰りました。

それを聞いて怒った道鏡により、名前を「分別穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に変えられ、大隅の国に流されました。
しかも、流される途中、道鏡の使者から命を狙われました。
しかし、突然現れた白い猪の群れに助けられ、大隅の国に流れ着きました。

やがて、天皇崩御のあと、道鏡は失脚し清麻呂も京に戻されました。

この事件を「宇佐八幡宮神託事件」と言います。

※1 君:一国の君主、天皇
※2 臣:君主に仕える人

6.狭名田の長田伝説

狭名田の長田は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が初めて水稲を作られた田であると言い伝えられ、日本最古の水田であると言われています。
木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)が、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)をお生みになったときに「狭名田」と名付けたと言われています。

島津斉彬のころ、田の神が建立されましたが、大正4年、村人たちによって「狭名田の跡」という石碑が立てられました。
昭和4年、霧島神宮の神田として永く保存されることになりましたが、21年の農地法によって一時は民有地になっていました。
しかし、平成8年に霧島神宮の神田として再び保存されることになりました。

狭名田の跡付近一帯を狭名田の長田と言います。

神代の昔、ここに初めて稲をまき彦火火出見尊がお生まれになったとき、その新殻を取り祝ったとも言われています。
また、母乳が足りなかったので、甘酒を作って育てたとも言われています。

7.猿田彦神社

猿田彦命は、天孫降臨のとき、この地方にいた国神であり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原から天の八重雲を押し分けてお降りになるとき途中までお迎えに行き、道案内(観光案内)した神様だと言われています。

その猿田彦命の屋敷跡というのが田口の辻にあります。
そこに「猿田彦神社」が建てられています。

猿田彦命は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に仕え手柄があったということで、現在でも「猿田彦命巡行祭り(俗に面ドン回り)」として、境内の境を清めて回る神事が毎年春秋計4回、霧島神宮の神職によって斎行されています。

8.坂本龍馬のハネムーン

慶応4年3月、寺田屋事件で九死に一生を得た坂本龍馬は、西郷隆盛らのすすめで、妻お龍とともに塩浸温泉で傷をいやしながら霧島を遊び、二人の生涯で最も楽しい生活を送りました。

これが日本の新婚旅行の始まりと言われています。

幕末の志士、坂本龍馬が恋女房のお龍を伴い、この地を遊んだのは有名なお話ですね。
今で言えば、ハネムーンのはしりでしょうか。

絹ごしのようなさわやかな空気、清らかなせせらぎ、美しい自然、そして、心温まる人の情、それらのすべてが龍馬の心をとらえたのでしょう。
姉(坂本乙女)に宛てた手紙の一節に「げに、この世の外かと思われるほどのめずらしきところなり。ここに十日あまり泊り遊び、谷川の流れにてうお(魚)を釣り、ピストルをもち鳥をうつなど、実におもしろかり…(略)」とあり、龍馬夫妻は飛沫はげしい犬飼の滝を訪れ、さらに神話の地高千穂峰まで足を延ばして、天の逆鉾を見て「その形たしかに天狗の面なり、二人大いに笑いたり…」とユーモアをのぞかせています。

この年、龍馬の奔走により西郷・大久保・木戸と会い、ここに薩長同盟を成立させるという大役を果たしています。
お龍というのは、有名な「寺田屋事件」の寺田屋の幼女であり、寺田屋は薩摩藩の船宿でした。

勝海舟の使者として西郷と会った龍馬は、薩摩藩の保護を受け、西郷とは公私ともども交際をするようになりました。
また、高千穂峰に登ったとき、硫黄谷温泉にも泊ったと言われています。

坂本龍馬夫妻がこの地を訪れたのは、慶応2年(1866年)3月のことで、二人は大阪から蒸気船に乗り込み、長崎を経て10日に鹿児島に到着しました。
それから、日当山・塩浸・栄之尾を経て高千穂峰に登っています。

文中のピストルは、寺田屋事件で幕吏との死闘の際に使用されたものだと言われています。

9.龍馬・お龍日本最初の新婚旅行の地・霧島市

日本で最初に新婚旅行に行ったのは、坂本龍馬とお龍さんだと言われています。
そして、その新婚旅行の地は、ここ霧島市です。

坂本龍馬とお龍さんの足跡を、歴史を交えながらお話ししましょう。

 

1.龍馬とお龍、新婚旅行の足跡

(日付は、イメージが湧きやすいように、新暦にしています。)

1866年 3月7日 薩長同盟成立。会談は龍馬の到着が遅れ、龍馬不在のまま京都薩摩藩邸で開かれた。
3月8日 3月10日未明午前2時ごろ、京都伏見寺田屋で三吉慎蔵と共に藩士に襲われ手傷を負うものの、ピストルで応戦して危機を脱する。大山彦八に救出され薩摩藩邸に囲われる。西郷隆盛は、兵一個小隊を派遣した。
3月21日 薩長連合の確認のため、桂小五郎の書簡に裏書をする。
3月28日 龍馬32歳のとき、中岡慎太郎が入京し、中岡の仲人でお龍との結婚を正式に披露する。
この頃、西郷・小松から霧島に傷によく効く評判の塩浸温泉を勧められる。
4月14日 お龍を連れ、鹿児島に向け京都を出立する。
4月15日 大阪の薩摩蔵屋敷に着く。船の支度を待つ。
4月18日 薩摩船「三邦丸」に乗船する。小松・西郷・桂久武・吉井幸輔などと鹿児島に向かう。中岡慎太郎、吉井慎蔵も同行。
縁結びのこの旅が日本人「新婚旅行第1号」となる。
4月20日 中岡、吉井、下関で下船する。
4月23日 長崎に寄る。
4月24日 鹿児島に到着。西郷邸・吉井邸に泊まる。
4月30日 吉井幸輔に誘われ、坂本夫妻塩浸温泉に出発する。
穏やかな錦江湾に、雄大に浮かぶ桜島を眺めながら、船で浜之市港へ。日当山温泉に泊まる。
小松帯刀夫妻は、4月28日から5月22日までの25日間、霧島栄之尾温泉で湯治中。
5月1日 塩浸温泉に11泊して、手傷の治療をする。この間、和気清麻呂公史蹟に立ち寄る。(月日不詳)島津斉彬公がお手植えの松があるだけの史跡であったが、犬飼滝と渓谷を見下ろし、右手に桜島、左手に高千穂峰を望める絶景の場所であった。
蔭見滝や塩浸温泉はこの世の外かと思われ候ほどめずらしき所なり。谷川の流れにて魚を釣り、短筒で鳥を撃つ。誠におもしろかりし。塩浸の谷は、岩つつじが満開の頃であり、近くの安楽や妙見の温泉、和氣湯巡りもしたであろうし、二人は京のことなど忘れ、一生で一番楽しい幸せな日々であったであろう。
5月12日 吉井幸輔の案内で、栄之尾温泉の小松帯刀のお見舞いに行く。牧歌的な萱葺きの家が続く中津川路であった。
5月13日 龍馬夫妻、念願の高千穂登山に行く。途中高千穂峰を矢立スケッチする。馬の背越えではあぶなくてお龍の手を引く。天の逆鉾に笑い、おびたたしい霧島つつじに感動する。霧島神宮を参拝し御神木の樹齢千年の大杉を見る。華林寺に泊まる。
5月14日 再び硫黄谷温泉に泊まる。吉井幸輔が待っていて、同行して5月16日塩浸温泉に帰り7泊する。
5月22日 日当山温泉に帰り3泊する。
5月25日 浜之市に帰り船待ちで1泊する。(宿は不詳)
5月26日 浜之市より乗船。鹿児島へ帰る。小松帯刀原良別邸で約50日滞在するも、どこで何をしていたかは不詳。
5月28日 開成所へ行く。桜島丸来る。
6月15日 寺内氏より四両三分の金を借用し、短刀合口をこしらえる。
7月13日 龍馬夫妻は桜島丸にて天保山より出港、帰途につく。

2.最愛の妻・お龍

龍馬が妻としたのは、楢崎龍という女性です。
お龍は、青蓮院宮家の侍医・楢崎将作の長女です。
勤王医として活動していた父は、安政の大獄で投獄され、獄舎で病死しました。

父の死後は、姉弟を養うために扇岩という旅館に奉公したと言います。
龍馬と出会って間もない頃、妹たちが騙されて大阪の遊女に売られる事件があり、お龍はこのとき、刃物を片手に一人で女部屋に乗り込んで救出しています。
この時のことを、龍馬は「死ねる覚悟にて刃物をふところにして喧嘩をいたし…」と手紙に詳しく書いており、お龍の行動に感心し、相当な衝撃を受けたと思われます。
気が強く、奔放な女性というのが、お龍を知る人に共通のイメージでした。
茶道・華道・香道などの心得がありましたが、家事は苦手で遊芸は大好き、政治のことにも口を出したがるような女性で、当時の男性からは敬遠されるタイプの女性だったと言えます。
龍馬にとっては、そこが魅力的であり、恋に落ちるには十分な要素です。

龍馬とお龍は、夜毎鴨川べりをデートしたと言われていますが、当時としては、男女が寄り添って一緒に歩くなどは珍しいことであり、両人ともに常識の範囲では考えられない思考の持ち主だったのかも知れません。

寺田屋で捕り手に踏み込まれたときには、入浴中だったお龍が一番に気づき、素肌に袷一枚の姿で二階に駆け上がり、龍馬に知らせました。
捕り手に対し、龍馬は拳銃で応戦し逃走しましたが、手に深手の傷を負い動けなくなってしまいました。
お龍は、伏見の薩摩藩邸に知らせに走り、救護の兵を出して龍馬の命を救いました。
この寺田屋事件の際、お龍の機転に感じ入り、妻として迎えたのでしょう。

1866年旧暦3月、寺田屋事件で深手を負った龍馬は、小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔らの紹介で薩摩藩を訪れ、鹿児島市の天保山より錦江湾を船で渡り、浜之市、日当山温泉、塩浸温泉、犬飼滝、霧島温泉、高千穂登山、霧島神宮参拝と訪ねて歩きます。
二人が仲睦まじく過ごせたのは、後にも先にもこのときだけです。

これがいわゆる「日本最初の新婚旅行」と言われています。

3.乙女姉さん

龍馬が12歳のとき、母の幸が亡くなった後、母親代わりとして龍馬を育てたのが、4つ年上の姉・乙女さんです。
母親の死後、悲しみのあまり、家にこもりがちだった龍馬を剣術や泳ぎなどで徹底的に鍛えた人です。

「坂本家の仁王様」と呼ばれるほどの烈女であり、身長五尺八寸(175cm)、体重は100㎏を超えていたと言われ、剣術や馬術、弓術、水練のほか、琴や三味線、浄瑠璃、和歌、詩吟など文芸もこなす文武両道の女性であったと言います。

幼き頃、泣き虫だった龍馬を徹底的に鍛えるべく、嫌がる龍馬を剣術で打ち負かしたり、小栗流日根野道場に入門させたり、無理やり川に投げ入れてまで泳ぎを教えたりと、龍馬の心身を鍛え上げました。
その甲斐あって龍馬は、同年代の少年たちよりもかなり大きく成長し、同時期に入門した少年たちの中では、体格や剣術の実力では際立った存在だったと言い、龍馬の才能を見出した人物の一人だと言えるでしょう。
龍馬が土佐を離れた後も姉弟の絆は固く、乙女姉さんには自慢話から女性関係までまめに手紙を送っています。

乙女姉さんあてに、全部で138通の手紙を送ったと言われています。

4.龍馬の手紙

1866年(慶応2年)12月4日 坂本乙女あて

龍馬は、おおらかでありながら、大変筆まめでユーモアに富んだ人柄であることが、姉の乙女などに出した手紙から分かります。
特に姉の乙女には、138通の手紙を送ったと言われていますが、その中に寺田屋事件で傷を負った龍馬が、、その治療を兼ねて妻のお龍と鹿児島県の霧島山へ登り、温泉で保養したことが書かれた物が残されています。
そのときのことを、登山道を絵入りで示し、見たこと聞いたことをそのまま書き表しています。

龍馬が残した手紙の中でイラスト入りのものは4通だけで、大変貴重なものです。

龍馬・お龍の新婚登山

・乙女さんに差し上げます。前々から申し上げていた妻のお龍は、私が寺田屋で襲われたときに機転をきかせてくれた私の恩人です。3月に京都での治療を終わり、龍と二人で鹿児島に旅行をすることにしました。霧島山に行く途中、高さ50間(約100m)ほどのめずらしい陰見の滝(犬飼の滝)というものを見ました。ここで10日ほど泊って谷川で魚を釣り、鳥を撃ったりして、大変楽しく過ごしました。それから山頂の「天の逆鉾」を見ようと妻とはるばる登りましたが、これがひどい道で、女の足では難しいようでしたが、やれやれと腰をたたいて登ると、右の絵のような思いもかけぬおかしな顔つきの天狗の面があり、二人で大笑いしました。山頂は眺めもよく、キリシマツツジが一面に咲いて、実に化粧をしたようでした。その山の大体の形は、絵図のようになっています。

・この逆鉾は、よく動くのでお龍と二人で鼻をおさえて、エイヤと引き抜いてみたら、わずか4尺から5尺(1m20cm~1m50cm)くらいでした。すぐに納めました。

・この穴は、火山の跡です。直径が3丁(約330m)くらい。すりばちみたいで下を見ると恐ろしかったです。ここにはキリシマツツジがたくさん咲いていました。

・イからロ、この間は坂道。焼石ばかり。男でも登りにくく、とても危険。焼け石はさらさらで、少し泣きそうになります。5丁(約550m)も登ればわらじが切れます。

・ロからハ、この間は「馬の背越え」(噴火口の縁を登る)です。左右目が届かぬくらいかすんでいます。あまり危なっかしいのでお龍の手を引いてやりました。

・ハからニ、(山頂までの)この間は、大変楽なところで、すべっても落ちる心配はいりません。

※ 実に坂本龍馬の人柄が出ている手紙のようですね。絵図がなくて残念ですが、手に入り次第、掲載しますね。

≪補足エピソード≫

龍馬は、栄之尾温泉で湯治をしていた小松帯刀のお見舞いに行き、翌日に念願の高千穂登山に行っています。途中高千穂峰をスケッチし、馬の背越えでは危なくてお龍の手を引き、天の逆鉾に笑い、おびただしい霧島ツツジに感動した様子が、姉乙女に宛てた手紙で知ることができます。
このとき龍馬は、小松帯刀からもらったカステラを弁当代わりに持って行ったそうですよ。

5.塩浸温泉 龍馬公園

1866年(慶応2年)旧暦の3月、坂本龍馬・お龍夫妻が新婚旅行の際、18日間滞在した場所が「塩浸温泉」です。

現在は、塩浸温泉龍馬公園として整備され、宿泊はできませんが、温泉施設や坂本龍馬とお龍の新婚旅行の地など、当時を回想する展示物や龍馬と霧島・薩摩が分かる資料館、二人の新婚湯治碑、公園内の足湯などがあります。

所在地:霧島市牧園町宿窪田3606番地
電 話:0995-76-0007

※ こちらの地図や写真などが手に入り次第掲載しますね。

6.龍馬ハネムーンウォークin霧島

霧島市は、1866年土佐の坂本龍馬と妻お龍が日本で最初の新婚旅行で訪れ、昭和9年3月には「日本で最初の国立公園」として指定された地です。

日本の将来を思い描きながら二人が歩いた道を、現代の龍馬とお龍になって歩き、霧島の自然と歴史を楽しむ「龍馬ハネムーンウォーク」(ウォーキング大会)が毎年開催されています。

期 日:毎年3月中旬頃の2日間開催
場 所:霧島温泉コース、犬飼・中津川コース、花はきりしま菜の花コース、隼人・天降川コースの4コース

主 催:公益社団法人 霧島市観光協会
電 話:0995-78-2115