下つ巻

霧島神宮

第十六代 仁徳天皇

后妃と皇子女

大雀命(おさざきのみこと、第十六代仁徳天皇)は難波の高津宮(大阪市中央区法円坂)で天下をお治めになりました。
『古事記』はここで、仁徳天皇の系譜と、主な御事績について列挙しています。
この天皇が、葛城の曾都毘古(建内宿禰の子)の娘、大后の石之日売命を娶って生んだ御子は、大江の伊耶本和気命(いざほわけのみこと、後の第十七代履中天皇)、次に墨江之中津王(すみえのなかつみこ)、次に蝮(たじひ)の水歯別命(後の第十八代反正天皇)、次に男浅津間若子宿禰命(おあさつまわくごのすうねのみこと、後の第十九代允恭天皇)。併せて四柱。
また、先に述べた日向の諸県君の牛諸の娘、髪長比売を娶りました。髪長比売には、大雀命(仁徳天皇)がお気に召され、父の応神天皇からもらい受けた逸話がありました。大雀命が髪長比売を娶って生んだ御子は波多毘能大郎子、またの名は大日下王といいます。次に波多毘能若郎子、またの名は長目比売命、またの名は若日下部命といいます。併せて二柱の王。
また、大雀命は庶妹の八田若朗女(やたのわかいらつめ、第十五代応神天皇の娘)を娶りました。また、庶妹の宇遅之若郎女(応神天皇の娘)を娶りました。この二柱には御子がありませんでした。大雀命の御子たちは、男王五柱、女王一柱、併せて六柱でした。
そして、仁徳天皇の次には伊耶本和気命が天下をお治めになりました。その次に、蝮の水歯別命もまた天下をお治めになりました。次に、男浅津間若子宿禰命もまた天下をお治めになりました。

聖帝の世

大雀命の御世に、大后の石之日別命の御名代(皇族が私有する労働集団)として葛城部を定めました。また、太子の伊耶本和気命の御名代として壬生部(皇子女の養育を担った)を定めました。また、水歯別命の御名代として蝮部を定めました。また、大日下王の御名代として日下部を定めました。若日下部の御名代として若日下部を定めました。
また、秦人(応神天皇の御世に朝鮮半島から渡来した集団)を使役して茨田堤と茨田三宅を作りました。(「茨田」は大阪府寝屋川市)この時、枚方市から大阪市まで七里(28km)に及ぶ堤防が築かれたと伝わります。
また、丸邇池と依網池を作りました。また、難波之堀江(大阪市内を流れる天満川辺り)を掘って海に通しました。この工事により河内平野に溜まった水が大阪湾へと流れるようになり、耕作力が大幅に高まったと考えられています。また、小椅江(こばしのえ、大阪市天王寺区付近の運河)を掘りました。また、墨江之津(大阪市住吉区に作られた港)を定めました。

さて、天皇は高い山にお登りになり、四方の国土をご覧になり「国中に炊煙が立ち昇っていない。国内は皆、貧しいのだろう。今から三年の間、ことごとく人民の課(みつぎ)と役を免除しよう」と仰せになりました。(「課」は朝廷に納める品物、「役」は労役)。
そのため、宮殿は破れ壊れ、ことごとく雨漏りするようになってしまいましたが、全く修理することなく、器でその漏れる雨を受け、漏れない所に移って避けました。
やがて天皇が国中をご覧になると、国土に煙が満ちていました。そこで、人民が豊かになったと思し召し、ようやく課と役を課しました。
こういうわけで、百姓は栄え、役使に苦しまなくなりました。そのため、その御世を称えて聖帝の世というのです。

黒日売と皇后の嫉妬

大后の石之日売命はよく嫉妬なさいました。そのため、天皇が側におこうとした妃たちは、宮中に入ることもできず、もし、目立ったようなことをすれば、石之日売命は足をばたばたさせてお妬みになりました。
それでも天皇は、吉備の海部直(吉備国、岡山県・広島県東部の一族で、海部を統率した一族)の娘、名は黒日売(くろひめ)の容姿がうるわしいとお聞きになり、召し上げて側で使うことになさいました。しかし、黒日売は、その大后の妬みを恐れ、本国に逃げ帰ってしまいました。
天皇は、高い楼閣で黒日売の船が出て海に浮かんだのをご覧になり、次の御製をお詠みになりました。

沖方には 小船連らく くろざやの まさづ子我妹 国へ下らす
(沖の方に小舟が連なっている。我が妻で妹のようないとしい子が、故郷へお帰りになる。)

ところが、大后はこの御製を聞いて大いにお怒りになり、人を大浦(大阪湾)に遣わせ、故郷へ帰ろうとする黒日売を船から下ろさせ、陸路を歩いて帰らせました。
そこで天皇は、黒日売を恋しく思い、大后を欺いて「淡道島(淡路島)を見たいと思う」と仰せになって御出ましになり、淡道島で遠くをご覧になって、次の御製をお詠みになりました。

おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔(あぢまき)の 島も見ゆ 離つ島見ゆ
(照りかがやく難波の崎から、海に出て我が国を見れば、淡島も淤能碁呂島も、檳榔の生えた島も見える、そして離れ島も見える。)

そして、天皇はその島を通って吉備国に御出ましになりました。すると、黒日売は、天皇をその国の山の畑にお呼びして、大御飯を献りました。黒日売が熱い汁物を煮るために、そこの青菜を摘んでいると、天皇はその嬢子が青菜を摘んでいる所においでになって、次の御製をお詠みになりました。

山がたに 蒔ける菘菜も 吉備人と 共に摘めば 楽しくもあるか
(山の畑に蒔いた青菜も、吉備の乙女と共に摘むと、なんと楽しいことか。)

天皇が難波の都にお帰りになる時、黒日売が次の歌を詠んで奉りました。

倭方に 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや
(大和(奈良県)の方に西風が吹き上げて、雲が離れていきますが、たとえ私たちがその雲のように離れ離れになろうとも、私はあなた様のことを忘れることはありません。)

そして黒日売は続けて次の歌を詠みました。

倭方に 住くは誰が夫 こもりづの 下よ延へつつ 往くは誰が夫
(大和の方へ向かって行くのはどこのお方でしょう。こっそりと心を通わせて先へ先へと行くのは、どこのお方でしょう。)

投げ捨てられた御綱柏

天皇は弟の速総別王を仲人として、庶妹の女鳥王に求婚なさいました。すると、女鳥王は、速総別王に次のように申し上げました。
「大后の石之日売命の御気性が激しいことが原因で、八田若郎女を迎えることもおできにならないほどなので、私にはお仕えできないと思います。私はあなたの妻になりましょう」
これにより、女鳥王は天皇ではなく、速総別王と結婚することになってしまったのです。このようなわけで、速総別王は天皇の元へ報告に戻りませんでした。
そこで天皇は女鳥王のいる所に御出ましになって、その御殿の戸口の敷居の上にお座りになりました。この時女鳥王は機織の前に座って服を織っていました。そこで、天皇は次の御製をお詠みになりました。

女鳥の 我が王の 織ろす服 誰が料ろかも
(私の女鳥王が織っている布は、誰の服にするためのものだろうか。)

すると、女鳥王が次のように答えて詠みました。

高行くや 速総別の 御襲衣料
(速総別王の衣料にするためのものです。)

これにより天皇は女鳥王の気持ちをお知りになり、宮にお帰りになりました。この時、その夫の速総別王がやって来て、妻の女鳥王が次のお歌を詠みました。

雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯(さざき)取らさね
(雲雀のような小さな鳥でさえ天を自由に飛び翔けまわる。まして、隼の名を持つ速総別さま、鷦鷯(仁徳天皇)の命を取ってしまいなさい。)

天皇はこの歌をお聞きになると、軍勢を集めて二人を殺そうと思し召されました。
速総別王と女鳥王は共に逃げ退いて、倉椅山(奈良県桜井市にある山)に登りました。そこで速総別王が次のお歌を詠みました。

梯立の 倉椅山を 嶮しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも
(倉椅山は険しく、岩に取りすがることもできないので、妻は私の手をお取りになることよ。)

続けて、次のお歌を詠みました。

梯立の 倉椅山を 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず
(倉椅山は険しいけれど、妻と登れば険しいこともない。)

そして、二人はその地から逃げ、宇陀の蘇邇(奈良県宇陀市曽邇村)に着いた時、天皇の軍勢に追いつかれて殺されました。その将軍の山部大楯連は、女鳥王が手に巻いていた玉釧(たまくしろ、玉を付けた腕輪)を奪って自分の妻に与えました。

この後、豊楽が催された時、各氏族の女たちが皆宮中に参内しました。この時、大楯連の妻は、夫が女鳥王を殺した時に奪った玉釧を、自分の手に巻いて参列しました。
大后の石之日売命は、自ら大御酒の柏をお取りになり、それぞれの氏族の女たちに賜いました。すると、その玉釧を目にした大后は、かつて女鳥王が手に巻いていた玉釧を覚えていらっしゃったので、大楯連の妻に御酒柏を賜わずに退席させ、夫の大楯連を呼び出し「女鳥王たちは、不敬な行為があったから退けたのだ。これに他の意味は無かった。その僕であったおまえは、かつての自分の主君が手に巻いていた玉釧を、肌が温かいうちに剥ぎ取って自分の妻に与えたのか」と仰せになり、処刑しました。

雁の卵

ある時、天皇が豊楽を催そうと、日女島(ひめしま、大阪市西淀川区姫島の辺り)に行幸あそばされた時、その島で雁が卵を生みました。そこで建内宿禰命をお召しになり、御製で雁が卵を生んだ様子をお尋ねになりました。

たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生むと聞くや
(内の臣である建内宿禰命よ、あなたこそは、この世に長く生きている人である。大和国で雁が卵を産んだと聞いたことがあるか。)

そもそも雁は渡り鳥で、秋に日本に飛来して越冬し、日本で産卵することはありません。雁が大和国で卵を産むということは、普段はあり得ないことで、そのようなことが起きるのを吉兆と考えているのです。
そこで建内宿禰命も歌で語りました。

高光る 日の御子 諾しこそ 問ひたまへ まこそ 問ひたまへ 吾こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生と 未だ聞かず
(高く輝く日の御子(天皇)よ。よくお尋ねになりました。まことによくお尋ねになりました。私こそはこの世を長く生きた者。大和国で雁が卵を産むなど、いまだ聞いたことはありません。)

このように申し上げて、天皇より琴を賜ると、建内宿禰命はまた歌を詠みました。

汝が御子や 終に知らむと 雁は卵生らし
(あなた様の子孫が、どこまでも天下をお治めになる吉兆として、雁は卵を生んだのでしょう。)

これは本岐歌の片歌です。本岐歌とは「寿き歌(祝いの歌)」で、片歌とは、もう一つの歌と一緒になってまことの歌になる歌のことですが、『古事記』にはもう一つの歌は伝えられていません。
この天皇の御世に、菟寸河(とのきがわ、所在未詳、大阪府高石市富木を流れていた川か)の西に一本の高い樹がありました。その樹の影は、朝日に当たれば淡道島(淡路島)にまで届き、夕日に当たれば高安山(大阪府と奈良県の間に位置する山)を越えました。
そこで、この樹を切って船を作ると、とても速く進む船となりました。その船を名付けて枯野といいました。『日本書紀』の応神天皇紀によると、軽く浮かび早く走るので「軽野」といい、それが訛って「枯野」になったと伝えられています。
そして、この船で朝夕に淡道島の清水を汲んで、大御水(天皇の飲料水)として献上しました。やがてその船も朽ちて壊れたので、塩を焼くのに使いました。そして、その焼け残った木を使って琴を作ったのです。するとその琴の音は七つの里に響きました。そこで人は次の歌を詠みました。

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや
(枯野の船を使って、塩を焼き、その焼け残りの木で琴を作って弾くと、由良(兵庫県洲本市由良)の海峡の、海の中の岩礁に、波に揺られながら生い茂る海藻のように、さやさやとその琴の音が響いた。)

これは志都歌の歌返しといいます。
この天皇の御年は八十三歳。丁卯年(西暦427年)八月十五日に崩御あそばされました。御陵は毛受の耳原にあります。(比定地:大阪府堺市堺区大仙町、陵名:百舌鳥耳原中陵、古墳名:大山古墳・大仙陵古墳)

第十七代 履中天皇

墨江中王の反逆

大雀命(仁徳天皇)の子の伊耶本和気命は伊波礼の若桜宮(奈良県桜井市池之内)で天下をお治めになりました。第十七代履中天皇です。
この天皇が、葛城の曾都毘古の子の葦田宿禰の娘、名は黒比売命を娶って生んだ御子は市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)。次に御馬王。次に妹の青梅郎女、またの名は飯豊郎女(いいどよのいらつめ、飯豊王)。
当初、難波宮(父仁徳天皇の宮、大阪市中央区)においでになった時、大嘗(新嘗祭)の後の豊明で、天皇は大御酒をお呑みになり、浮き浮きした良い気持ちになって、お眠りになりました。するとその弟の墨江中王(しみのえのなかつみこ、墨江之中津王。仁徳天皇の御子で、履中天皇の同母弟)が、天皇を殺そうと思い、御殿に火をつけました。そこで、倭漢直(帰化氏族の東漢氏)の祖である阿知直がこっそり天皇を連れ出して、御馬にお乗せして大和に逃れました。天皇は、多遅比野(大阪府羽曳野市)に着いたところでお目覚めになり「ここはどこか」と仰せになったので、阿知直は「墨江中王が御殿に火をつけましたので、大和に逃げているのです」と申し上げました。
そこで天皇は次の御製をお詠みになりました。

多遅比野に 寝むと知りせば 立薦も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば
(多遅比野で寝ると知っていたら、カーテンくらいは持って来たものを。寝ると知っていたなら。)

暗殺を逃れて避難する天皇が目を覚ました途端に「野宿することを知っていたなら、カーテンくらいは持って来たのに」と、ユーモアあふれる御製をお詠みになったのですから、きっとこれを聞いた付き人たちは大笑いしたことでしょう。
波邇賦坂(はにうざか、大阪府羽曳野市にある坂)で難波宮を見ると、その火はなおも燃えていました。そこで天皇は次の御製をお詠みになりました。

波邇賦坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群 妻が家のあたり
(波邇賦坂に私が立って眺めれば、多くの家が盛んに燃えているのが見える。妻の家の辺りだ。)

水歯別命と曾婆訶理

そして、天皇が大坂山の麓(河内と大和の境)までおいでになった時、一人の女人にお会いになりました。その女人は「武器を持った大勢の人たちが、この山を塞いで通れなくしています。当岐麻道(奈良県葛城市當麻を経て竹内峠に至る竹内街道)から廻ってお進みになるのが良いでしょう」と申し上げました。そこで天皇は次の御製をお詠みになりました。

大坂に 遭ふや娘子を 道問へば 直には告らず 当岐麻道を告る
(大阪で出逢った乙女に道を尋ねると、真っ直ぐに行けとは言わずに、遠まわりになる当岐麻道を行けという。)

そして、当岐麻道を上り進み、石上神社(奈良県天理市の石上神社)にお着きになりました。
弟の水歯別命(第十六代仁徳天皇皇子。後の第十八代反正天皇)が石上神社で天皇に拝謁を求めると、天皇は「私はあなたも墨江中王と同じ心ではないかと疑っている。だから語り合うまい」と伝えさせました。
そこで、水歯別命が「私に反逆心はありません。墨江中王と同じではありません」と申し上げると、天皇は「ならば今から帰り下って、墨江中王を殺して来なさい。その時には、私は必ずあなたと語り合うだろう」と伝えさせました。
そこで、水歯別命は、難波に下り、墨江中王に仕えている隼人(はやひと、九州南部の地方勢力。「はやと」とも)の曾婆訶理を騙して「もしおまえが私の言葉に従えば、私が天皇となり、おまえを大臣にして、天下を治めようと思う。どうだ」と言いました。曾婆訶理は「仰せのままに」と答えました。すると、水歯別命は、たくさんの品物をその隼人に与え「ならばおまえが仕える御子を殺せ」と言いました。そこで、曾婆訶理は自分の主君が厠に入るのを密かにうかがい、矛で刺して殺したのです。

兄弟の語らい

水歯別命は曾婆訶理を率いて大和に上り進んだ時、大坂山の麓に着いて「曾婆訶理は、私のために大きな功績を立てたが、自分の主君を殺したのは、忠義に反する。だがその功績に報いないことは信義に反する。しかし、その信義に従えば、いつかまた主君の命を狙うかもしれない。ならば、その功績には報いるも、その当人は殺してしまおう」と考えました。
そして、水歯別命は曾婆訶理に「今日はここに留まって、まず大君の位を授け、明日に上り進もう」と言って、その場に留まり、仮宮を造り、ただちに豊明を催しました。そこでその隼人(曾婆訶理)に大臣の位を贈り、百官(おおくの官人たち)に跪かせると、隼人は歓喜し、志を遂げたと思ったのです。
水歯別命はその隼人に「今日は大臣と同じ盃で酒を飲もう」と言って、共に飲んだ時、顔を隠すほどの大きな椀に、勧める酒を盛りました。そして、王子が先に飲み、隼人が後に飲みました。隼人が飲む時、大きな椀が顔を覆いました。そこで、水歯別命は敷物の下に隠していた剣を取り出し、隼人の首を斬ったのです。
そして次の日に天皇の待つ宮に上り進みました。そこで、その地を名付けて近飛鳥(大阪府羽曳野市飛鳥)というのです。これは一種の駄洒落のようなものでしょうか。明日になって上り進んだから「あすか」というわけです。
さらに水歯別命は上り進んで大和に着き「今日はここに留まり、祓禊(みそぎ、水で身体を清める儀式)をして、明日になってから訪れて神宮を拝もう」と言いました。そこで、その地を名付けて遠飛鳥(奈良県明日香村)というのです。難波宮から見て「近い・遠い」を区別して、近飛鳥と遠飛鳥といったのでしょう。

そして、石上神社に参上し、取次ぎの者を通じて天皇に「御下命のあった政はすでに遂行しましたので、ご報告にあがり、命を待っています」と申し上げると、天皇は水歯別命を宮殿に召し入れて謁を賜い、兄弟で親しく語り合ったのです。
天皇は、火の中から命を救ってくれた阿知直を初めての蔵官(物の出納をつかさどる役)に任命あそばされ、また耕作地をお与えになりました。また、この御世に、若桜部臣らに若桜部(若桜宮にちなんだ御名代として設置された集団)の名を賜い、また、比売陀君にらに比売陀君の姓を賜いました。
天皇が姓名を賜うことを賜姓といいます。これにより、姓を与える天皇と、姓を与えられる者の関係が成立します。これは、支配する者と支配される者の関係を意味します。また天皇は伊波礼部(履中天皇の御名代として設置された集団か)を定めました。

天皇の御年は六十四歳。壬申年(西暦432年)正月三日に崩御あそばれました。御陵は毛受にあります。(比定地:大阪府堺市西区石津ケ丘、陵名:百舌鳥耳原南陵、古墳名:百舌鳥陵山古墳・上石津ミサンザイ古墳・石津ケ丘古墳)

第十八代 反正天皇

履中天皇の弟にあたる水歯別命は、墨江中王を誅した功績により、履中天皇の皇太子に立てられましたが、後に履中天皇の崩御に伴って即位あそばされました。第十八代反正天皇です。反正天皇は多治比(丹比は大阪府羽曳野市・松原市・堺市をまたがる地帯)の柴垣宮(松原市上田の芝籬神社付近か)で天下をお治めになりました。
この天皇の御身の丈は九尺二寸半(1.8m)で、御歯の長さは一寸(1.9cm)、幅は二分(約4mm)、上下が等しく整い、まるで珠を貫いたようでした。
歯の長さが一寸というのは、立派な御歯が揃っていらっしゃったと理解するとよいでしょう。水歯別命という名前は、立派な歯が印象的で、おそらく歯並びも美しかったことから付けられた名前だと思われます。
天皇は、丸邇の許碁登臣の娘を娶って甲斐郎女と都夫良郎女の二柱の御子を生みました。また、同じ臣の娘、弟比売を娶って、財王と多訶弁郎女を生み、併せて四柱の御子を生みました。

天皇の御年は六十歳。丁丑年(西暦437年)七月に崩御あそばされました。御陵は毛受野にあります。(比定地:大阪府堺市北三国ケ丘町、陵名:百舌鳥耳原北陵、古墳名:田出井山古墳・楯井古墳)

第十九代 允恭天皇

后妃と皇子女

水歯別命(反正天皇)の弟の男浅津間若子宿禰命(おあさつまわくごのすくねのみこと)は遠飛鳥宮(奈良県明日香村飛鳥)で天下をお治めになりました。第十九代允恭(いんぎょう)天皇です。第十六代仁徳天皇の御子であり、第十七代履中天皇と第十八代履中天皇の同母弟にあたります。後に飛鳥の地で多くの宮が営まれることになりますが、反正天皇の遠飛鳥宮がその最初になります。
この天皇が、意富富杼王(おおほどのみこ、第十五代応神天皇の御子の若沼毛二俣王の子)の妹、忍坂大中比売命を娶って生んだ御子は木梨之軽王(きなしのかるのみこ、木梨之軽太子)。次に生んだのが長田大郎女。次に境之黒日子王。次に穴穂命穴穂御子)。次に軽大郎女、またの名は衣通郎女。御名に「衣通」とあるのは、その体の光が衣を透け通っていたためです。次に八瓜之白日子王。次に大長谷命。次に橘の大郎女。次に酒見郎女。すべて允恭天皇の御子たちは九柱で、男王が五柱、女王が四柱です。
この九柱の中で穴穂命が允恭天皇の次に天下をお治めになります。第二十代雄略天皇です。

氏姓の定め

允恭天皇が初め、天津日継(天皇の位)を継承しようとあそばされた時、天皇はご遠慮になり「私には一つの長年の病があり、皇位を受け継ぐことはできない」と仰せになりました。ところが、大后をはじめ、官人たちが強く願い出たため、御位にお就きになりました。
この時、新良(しらぎ、朝鮮半島の新羅)の国王が、八十一艘の船で貢物を献上しました。この貢物の大使の名は金波鎮漢紀武(こむはちにかにきむ)といいます。この人は薬の処方をよく知っていたため、帝皇の病を治療して差し上げました。
ところで、天皇は、天下のあらゆる人たちの氏姓が本来のものとは謝っていることを憂えて、味白檮(奈良県明日香村甘樫丘)の言八十禍津日前で盟神深湯という占いを行って誤りを正し、そして天下の多くの職業集団の長の氏姓をお定めになりました。
「氏」とは世襲により敬称される家の名のことで、また「姓」とは朝廷から賜わる家の階級のことです。盟神深湯とは、深湯瓮という釜に湯をたぎらせて、そこに手を入れ、火傷するかしないかにより、その人の邪心を判断する占いのことです。これは邪心を持った者は火傷を負い、邪心を持たない者は火傷を負わないという考えによるものです。天皇は乱れていた氏姓を、このような占いでお正しになったのです。
また、木梨之軽太子の御名代として軽部を定め、大后の御名代として刑部を定めました。そして、大后の妹の田井之中比売の御名代として河部を定めました。

天皇の御年は七十八歳。甲午年(西暦454年)正月十五日に崩御あそばされました。御陵は河内の恵賀長枝にあります。(比定地:大阪府藤井寺市国府、陵名:恵我長野北陵、古墳名:市ノ山古墳)

軽太子と軽大郎女の不倫

允恭天皇の後は、木梨之軽太子が皇位を受け継ぐことになっていました。母が異なる兄弟姉妹間の結婚は許されていましたが、同じ母の兄弟姉妹間の結婚は不倫とされ、固く禁止されていました。ところが、それにもかかわらず、まだ即位する前に、軽太子は同母妹の軽大郎女と禁断の愛を紡いで次の歌を詠みました。

あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下どひに 我がとふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ
(山に他を作り、山の高みに樋(木製の水路)を走るように、こっそり一目を忍んで言い寄る、その私が言い寄る妹に、忍んで泣いて、私の慕い泣く妻に、今夜こそは安らかにその肌に触れたかったものを。)

これは志良宜歌(しらげうた)です。志良宜歌とは歌謡形式の名称で、終句を尻上がりに詠む、尻上げ歌の意味と考えられています。また、次のお歌を詠みました。

笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
(笹の葉を打つ霰のタシダシという音のように、「たしか」に共寝をしてしまった後は、あの人が離れ去ってしまっても、しかたがない。愛しいと言って寝てしまったならば、離れ離れになってしまってもかまわない、寝てしまったならば。)

これは夷振(えぶり)の上歌です。夷振とは歌謡形式の名称で、上歌とは、調子を上げて詠む歌の意味と考えられています。
このように軽太子が軽大郎女と不倫をしたことによって、百官(多くの官人)や天下の人たちは、軽太子に反感を持ち、弟の穴穂御子に期待するようになりました。
すると兄の軽太子は恐れて、大前小前宿禰(物部氏)の大臣の家に逃げ入って、武器を備え作りました。その時に作った矢は、銅の矢尻を使っていました。そこで、その矢を名付けて軽箭といいます。「軽箭」の「軽」は「軽太子」の「軽」にかけたものでしょう。
穴穂御子もまた、武器を作りました。この御子の作った矢は、まさに今時の矢で、鉄の矢尻を使った矢です。これを穴穂箭といいます。これは軽太子の「軽箭」に対比させていったものだと思われます。ちなみに、古墳時代中期に銅製の矢尻はなくなり、鉄製の矢尻が普及するため、この記述は考古学的な知識と一致します。

太子の島流し

このように武器を揃えると、穴穂御子は軍勢を集めて大前小前宿禰の家を囲みました。ところが、その門に着いた時、ひどい氷雨が降ってきました。そこで、穴穂御子は次のようなお歌を詠みました。

大前 小前宿禰が 金門蔭 かく寄り来ね 雨立ち止めむ
(大前小前宿禰の家の堅固な門の陰に、このように寄って来なさい。雨がやむまで待ちましょう。)

すると、大前小前宿禰が手を挙げて膝を打ち、舞い踊り、歌いながらやって来ました。

宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人とよむ 里人もゆめ
(宮廷の人の、足結の小鈴が落ちてしまったと、宮廷の人が騒いでいる。里の人は忌み慎んで、騒いではいけない。)

「足結」とは、袴の膝のあたりをくくって動きやすくするための紐のことです。また、小鈴が落ちたことは、王権に危機が生じていることのたとえで、民間人も気を引き締めるべきことを伝えようとしていると考えられます。この歌は、初句の「宮人の」にちなみ、宮人振といいます。
このように大前小前宿禰が歌いながらやって来て「我が天皇の御子よ。兄の王に兵を向けてはいけません。もし兵を向けたら、必ず人々は笑うでしょう。私が捕らえて差し出しましょう」と申し上げると、それを聞いた穴穂御子は、兵を解いて退きました。そこで、大前小前宿禰は軽太子を捕らえて、引き連れて現れ、差し出したのです。軽太子は、捕らえられて次の歌を詠みました。

天飛む 軽の嬢子 いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く
(天飛む軽の乙女(軽大郎女)よ。ひどく泣いたら、人が知ってしまう。波佐の山の鳩のように、声を忍ばせて泣いている。)

また、続けて次の歌を詠みました。

天飛む 軽嬢子 したたにも 寄り寝てとほれ 軽嬢子ども
(天飛む軽の乙女よ。しっかりと私に寄り添って寝て行きなさい。軽の乙女たちよ。)

そして、軽太子は伊余湯(愛媛県松山市の道後温泉)に島流しにされました。また、軽太子は流されようとした時に、次の歌を詠みました。

天飛む 鳥も使ひそ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名問はさね
(空を飛ぶ鳥は使いの鳥だ。鶴の声が聞こえる時には、私の名を訪ねて欲しい。)

この三首の歌は、初句にちなみ、天田振(あまたぶり)といいます。軽太子は続けて次の歌を詠みました。

王を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ
(王である私を島に追放しても、私は帰って来るぞ。私の敷物を変えずにおいておけ。言葉では「敷物」と言ったが、むしろ敷物ではなく、我が妻こそ決して変わらずにいてくれ。)

この歌は夷振の片下(かたおろし)といいます。片下とは、調子を下げて詠む歌の意味と考えられています。

禁断の愛の末路

衣通王(軽大郎女)は、軽太子のことを思って次のお歌を献りました。

夏草の あひねの浜の 蠣貝に 足踏ますな あかしてとほれ
(あひねの浜の、牡蠣の殻を、足で踏まないように、夜の明けるのを待っていきなさい。)

軽大郎女が後にまた恋い慕う気持ちを抑えきれなくなって、追いかけて行った時、次のお歌を詠みました。

君が往き 日長くなりぬ やまたづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
(あなたが旅立ってから、長い月日が経ちました。迎えに行きましょう。もう待つことはいたしません。)

この歌には類歌があります。『万葉集』巻二(八五)に磐姫皇后(仁徳天皇后・石之日売命)の歌として「君が行きけ長くなりぬ山たづね 迎へか行かむ待ちにか待たむ」と伝えられています。
そして、追いついた時に、軽太子は待ち迎え、軽大郎女を抱いて、次のお歌を詠みました。

隠り処の 泊瀬の山の 大峰には 幡張り立て さ小峰には 幡張り立て 大小よし 仲定める 思ひ妻 あはれ 槻弓の 臥やる伏やる 梓弓 起てり起てり 後も取り見る 思ひ妻 あはれ
(泊瀬の山の高い峰に幡を張り立て、低い峰にも幡を張り立て、私との仲をしっかりと定めた愛しい妻よ。じっと臥していても、じっと起きていても、愛しい妻に、これからも世話をしてやりたいと思う。)

また、続けて次のお歌を詠みました。

隠り処の 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には 鏡を掛け 真杙には 真玉を懸け 真杙には 真玉を懸け 真玉なす 吾が思ふ妹 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ
(泊瀬の川の上流の瀬に清浄な杙を打ち、下流の瀬に正当な杙を打ち、清浄な杙には鏡をかけ、正当な杙には立派な玉をかける。その立派な玉のように私が大切に思う妹よ、鏡のように私が大切に想う妻よ。あなたがいるというならばこそ、家にも行くし、故郷のことを偲び懐かしむけれども、おまえはここにいるのだから、そうすることはない。)

このように歌い、二人は共に自害しました。この二首は読歌といいます。読歌とは歌謡形式の名称で、朗読するように歌う歌のことと考えられます。

第二十代 安康天皇

目弱王に殺められた天皇

軽太子が失脚したことにより、同じく允恭天皇の御子で軽太子の弟に当たる穴穂御子が、石上の穴穂宮(奈良県天理市田町)で天下をお治めになりました。第二十代安康天皇です。
天皇は、弟の大長谷王子(後の雄略天皇)のために、坂本臣(建内宿禰の子の木角宿禰の子孫)らの祖である根臣を、大日下王(第十六代仁徳天皇の御子で、允恭天皇の異母弟)の所に御差遣になって「あなたの妹の若日下王(若日下部命)を大長谷王子と結婚させたいと思うので、協力しなさい」と伝えさせました。すると大日下王は、四度拝み「もしそのような大命があればと思い、妹を外に出さずにおきました。これは畏れ多いことであります。大命のとおりに奉ります」と申し上げました。そして大日下王は、言葉だけで申し上げることは礼が無いと思い、妹の縁談への礼物(敬意を表す贈り物)として押木の玉縵(木の枝の形をした飾りをもつ立派な冠)を持たせて奉りました。
ところが、根臣は、受け取ったその礼物の玉縵を盗み取り、大日下王を貶めて、天皇に「大日下王は勅命を受けず、『私の妹は同族の下敷きになりはしない』と言って太刀の柄を握って怒りました」と嘘の報告をしました。それを聞いた天皇は大いにお怒りになり、大日下王を殺して、その王の正妻の長田大郎女を連れて来て皇后となさいました。

ある時、天皇は神牀(かむとこ)で昼寝をしていらっしゃいました。神牀とは天皇が神意を受けるための清浄な床です。天皇がそのような場所で昼寝をしてしまったことと、天皇が間もなく災難に巻き込まれることは無関係ではないのかもしれません。
その時、天皇は后に「あまえには心配事があるか」とお尋ねになると、后は「天皇のあつい恵みを頂いて何の心配事がありましょう」と答えました。
さて、その后には先の夫である大日下王との間に子がいました。目弱王(まよわのみこ)といって、この年七歳になります。天皇と后がそのような会話をなさっているちょうどその時、この王が、御殿の床下で遊んでいたのです。
ところが天皇は、その幼い王が御殿の床下で遊んでいるのを知らずに「私には常に心配していることがある。おまえの子の目弱王が大人になった時、私がその父王を殺したことを知ったら、復讐心を抱くのではあるまいか」と仰せになりました。そこで、御殿の床下で遊んでいた目弱王は、この言葉を聞き取ると、すぐに天皇が寝ているのを密かにうかがって、傍にあった太刀で天皇の首を打ち斬り、都夫良意富美(つぶらおおみ)の家に逃げ込んだのです。

安康天皇の御年は五十六歳。御陵は菅原の伏見岡にあります。(比定地:奈良県奈良市宝来、陵名:菅原伏見西陵)

大長谷王子の復讐

安康天皇が目弱王に殺害されると、当時まだ少年であった大長谷王子(おおはつせのみこ、安康天皇の弟、後の雄略天皇)はこのことを聞いて、怒りを顕にし、兄の黒日子王の所に出掛けて「王が天皇を殺しました。どのようにするおつもりですか」と尋ねました。しかし、黒日子王は驚かず、大して気にもかけない様子でした。
そこで、大長谷王子は兄を罵り、「殺されたのは天皇で、しかも兄弟であるのに、あなたは何も頼もしい心を持たず、兄が殺されたことを聞いても驚かずになまけているとは」と言って、その首をつかんで引きずり出し、刀を抜いて打ち殺してしまいました。
また、大長谷王子は、もうひとりの兄である白日子王の所に行き、先ほどと同じように尋ねたところ、大して気にもかけない様子は黒日子王と同じでした。そこで、その首をつかんで引きずり出し、小治田(奈良県明日香村。後に第三十三代推古天皇が都を置いた)に連れて行き、穴を掘って白日子王を立たせたまま埋めると、腰まで埋めた時、白日子王の二つの目玉が飛び出して死んでしまいました。

そして、大長谷王子は軍を起こし、安康天皇を殺した目弱王が逃げ込んだ都夫良意富美の家を取り囲みました。この時、都夫良意富美も軍を起こして迎え撃ち、射放つ矢が、群生して生える葦のように一斉に飛んできました。
そこで、大長谷王子は矛を杖にして、その中に向かって「私が言い交わした嬢子は、もしかしてこの家にいるか」と尋ねました。すると、都夫良意富美は、この言葉を聞いて自ら出て来て、身に着けていた武器を解いて、八度拝んでから申し上げました。
「先日求婚なさった、私の娘の韓比売は、あなた様に仕えさせましょう。また、私の私有地である五ケ所の屯宅を副えて献りましょう。しかし、なぜ私自身が参上しないかというと、古より今に至るまで、臣下が皇族の宮に隠れたことは聞いたことがありますが、いまだ王が臣下の家に隠れたことは聞いたことはないからです。このことから思うに、賎しい奴の私ごときが力を尽くして戦ったとしても、勝つことはないでしょう。ただしかし、私を頼って家にお入りになった王を、死んでも見捨てるわけにはいきません」
ところで、「五ケ所の屯宅」とは、今の葛城の五村の苑人(そのひと)のことです。
意夫良意富美はこのように申し上げて、また武器を取り、家に戻って戦いました。そうして、力尽き、矢も尽きたので、目弱王に「私は手傷を負い、矢もつきました。今はもう戦うことができません。どういたしましょう」と申し上げると、王は「ならばもうなすすべはない。私を殺しなさい」と言いました。そこで、意夫良意富美は刀で王を刺し殺し、自分の首を切って死んだのです。

身を隠した意祁王と袁祁王

このことがあった後、淡海の佐佐紀山君(ささきのやまのきみ、近江国蒲生郡、滋賀県蒲生郡・近江八幡市周辺の豪族)の祖である、韓袋という名の者が「淡海の蚊屋野(所在未詳)に、多くの猪や鹿がいます。その足は荻原のようで、突き出た角は枯れ木のようです」と申し上げました。
この時、大長谷王子は、履中天皇の御子で大長谷王子の従兄弟に当たる、市辺之忍歯王忍歯王)と連れ立って淡海に出掛け、その野に着くと、それぞれ別に仮宮を作って泊りました。
すると翌朝、まだ日が昇らない時に、忍歯王が、いつもどおりのなにげない様子で、馬に乗ったまま大長谷王子の仮宮の傍に来て、大長谷王子の御家来に「まだお目覚めにならないのか。早くこのように申し上げよ。夜はすでに明けました。狩り場に出掛けましょう」と言いました。
そして、馬を進めて先に行ったので、大長谷王子の側に仕える家来たちは「不愉快なことをいう王です。用心なさいませ。またしっかりと武装なさるのがよろしいでしょう」と申し上げました。そこで大長谷王子は、衣の中に鎧を着込み、弓矢を携え、馬に乗って出て行き、たちまちの間に馬を進めて忍歯王と並ぶと、矢を抜いて忍歯王を射落としました。
そしてまた、その体を斬り、飼葉桶に入れて地面の高さに埋めました。地面の高さに埋めたということは、つまり塚や墓を築かずに粗末に葬ったことを意味します。忍歯王は王としてのふさわしい墓を持つことが許されなかったのです。

ところで、安康天皇は忍歯王に皇位を譲りたいとお考えになっていたともいわれています。すると、大長谷王子は忍歯王を殺害するつもりで狩りに誘い出したと見ることもできます。
大長谷王子は安康天皇崩御の後に、兄の黒日子王や白日子王など、競合する兄弟・従兄弟を残虐な方法で次々と殺してきました。
そこで、忍歯王の王子たち、意祁王(意祁命、後の仁賢天皇)と袁祁王(袁祁命、後の顕宗天皇)の二柱は、この乱で父が殺されたことを聞いて逃げ去りました。そして、二柱の王が山代(京都府南部)の刈羽井に着いて御粮(みかれい、米を干した携帯食)を食べた時、目じりに入れ墨を入れた老人が来てその粮を奪いました。その時、二柱の王が「粮は惜しくないが、お前は一体誰だ」と問うと、「私は山代の猪甘(いかい)だ」と答えました。猪甘とは、豚を飼う部民です。
そこで、淀川の渡し場の久須婆(くすば、大阪府枚方市楠葉)で河を逃げ渡り、針間国(播磨国、兵庫県南部)に着くと、志自牟という名のその国の住人の家に入りました。意祁王と袁祁王は、王子である身分を隠して、馬飼い・牛飼いに仕えて働いたのです。

第二十一代 雄略天皇

若日下部王への求婚

このようにして、大長谷若建命(大長谷王子)は即位あそばされ、長谷の朝倉宮(奈良県桜井市脇本の脇本遺跡とする説が有力)において天下をお治めになりました。第二十一代雄略天皇です。
天皇は大日下王(仁徳天皇の御子で、雄略天皇の叔父)の妹、若日下部王(若日下部命)を娶りましたが、子はありませんでした。また、都夫良意富美の娘、韓比売を娶って生んだ御子は白髪命(しらかのみこと、後の第二十二代清寧天皇)、次に妹の若帯比売命。併せて二柱です。
そして、白髪太子の御名代として、白髪部(白髪命の名にちなんだ部民)を定め、また、長谷部(大長谷若建命の名にちなんだ部民)の舎人(とねり、天皇・皇族に仕える者)を定め、また河瀬の舎人(滋賀県彦根市付近に本拠があった舎人の意か)を定めました。この天皇の御世に、呉人(中国南方の人)が日本に渡って来ました。その呉人を呉原(奈良県明日香村栗原付近)に定住させました。そこで、その地を名付けて呉原というのです。

初め、大后の若日下部王が日下(大阪府東大阪市日下町付近)においでになった時、天皇は日下の直越の道(大和から生駒山を越えて難波につながる道)を通って、大和から河内へ御出ましになりました。その時、山の上に登って国内をご覧になると、堅魚木(かつおぎ)を屋根の上に載せている家がありました。天皇は、その家を訪ねさせ「堅魚木を屋根の上に載せているのは誰の家だ」とお尋ねになると、供の者が「志幾の大県主(大阪府柏原市・八尾市・藤井寺市付近の豪族)の家です」と申し上げました。
そこで天皇は「奴ね、自分の家を天皇の御殿に似せて作るとは何事か」と仰せになり、人を遣わせてその家を焼かせようとなさいました。すると、その大県主は恐縮し、平伏して「私は愚かでした。愚かであるゆえに気付かず、誤って作ってしまったことは、とても畏れ多いことです。そこで、お詫びの印として、品物を献りましょう」と申し上げて、布を白い犬にかけ、鈴を付けて、腰佩という名の自分の親族に犬の綱を持たせて献上しました。そこで、天皇は、火を着けるのを止めさせました。
そして、天皇は若日下部王の所に御出ましになって「これは今日、道で手に入れた珍しいものである。そこでこれを求婚の品としよう」と伝えさせて、その犬を贈り届けました。すると、若日下部王は天皇に「あなた様が日に背を向けて御出ましになったことは、とても畏れ多いことです。私の方が直接宮中に参上してお仕えいたしましょう」と奏上させました。そこで天皇は宮に帰り上る時に、山の坂の上に立って次の御製をお詠みになりました。

日下部の 此方の山と 畳薦 平群の山の 此方此方の 山の峡に 立ち栄ゆる 葉広熊 白檮 本には いくみ竹生ひ 末辺には たしみ竹生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしには率寝ず 後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ
(河内の国の日下の、ことらの山と、大和の平群の山の、あちこちの山と山の間に、立ち茂る葉の広い樫の木よ。根元には竹がまとまって生え、枝の先の方には竹が茂って生えている。私たちは、竹がまとまって生えるように組み合って寝ることはなく、また竹が茂って生えているように重なって寝ることもないが、必ず後には一緒に組み合って寝たいものだ。私の愛しい妻よ、ああ。

そして、天皇は、使いにこの歌を持たせて若日下部王のもとに返しました。

引田部の赤猪子

またある時、天皇が遊びにお出掛けになり、美和河(初瀬川の下流で、三輪山付近。三輪川)にお着きになった時、川辺で衣を洗っている幼い童女がいました。容姿がとても美しかったので、天皇がその童女に「お前は誰の子か」とお尋ねになると、童女は「私の名は引田部の赤猪子と言います」と申し上げました。(「引田」は奈良県桜井市白河付近か)。そこで天皇は「あなたは男に嫁がずにいなさい。もう少し大きくなったら、今に宮中に召し抱えることにしよう」と使いの者に伝えさせ、宮にお帰りになりました。
ところが、その赤猪子が天皇からお呼びがかかるのを仰ぎ待っているうちに、すでに八十年が過ぎてしまいました。ようやく赤猪子は、「天皇の命令を待っている間に、すでに多くの年月が経ち、姿は痩せしぼみ、もう頼れるものも無い。しかし、待っていた気持ちを天皇にお伝えしなければ、気が塞いで仕方がない」と思い、百取の机代物(夥しい数の引き出物)を人に持たせ、宮中に参内して献上しました。
ところが、天皇は、かつて赤猪子にお告げになったことを、すっかりお忘れになり「おまえはどこの老女だ。どうして参内したのだ」とお尋ねになりました。そこで赤猪子は答えて申し上げました。
「ある年のある月に天皇のお言葉を頂き、御命令を仰ぎ待って、今日に至るまで八十年が経ってしまいました。今はもう容姿もすっかり老いて、もはや頼れるものはありません。しかし、せめて自分の気持ちだけは打ち明けようと思い、参内したのです」
すると天皇は「私はすっかり以前のことを忘れていた。それでもあなたは志を守り命令を待ち続け、無駄に盛りの年を過してしまった。これはとても気の毒なことだ」と仰せになったのです。天皇は、内心ではまぐわいをしようとも思し召しましたが、その非常に老いているのを憚り、まぐわいはなさらずに、次の御製をお贈りになりました。

御諸の 巌白檮がもと 白檮がもと ゆゆしきかも 白檮原童女
(御諸山(三輪山)の神威のある樫の木の下、その樫の木の下のように、神聖で近寄ることができない、樫原の乙女よ。)

また次の御製をお贈りになりました。

引田の 若来栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにかるかも
(引田の若い栗林の、その栗のように、若い頃に共寝をすればよかったのに、私はすっかり老いてしまったことだ。)

結婚が現実的でないことを、天皇が自らの老いのせいであると仰せになることで、赤猪子は救われます。これを聞いた赤猪子は涙を流し、その泣く涙が、ことごとく着ている赤く染めた着物の袖を濡らしてしまいました。そこで、赤猪子はこの大御歌に答えて次の歌を詠みました。

御諸に 築くや玉垣 つき余し 誰にかも依らむ 神の宮人
(御諸山(三輪山)に築いた立派な垣根の、「築き」残しのように、神に「付き」従ってきた私は、誰に頼れば良いか、神の宮に仕えている巫女は。)

 また次の歌を詠みました。

日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも
(河内の国の日下の入江の蓮の、その蓮が咲くような、身の盛りの人。そのような若い人が羨ましいことです。)

そこで天皇は、多くの品物を老女に賜い、送って帰らせました。この四首の歌は志都歌といいます。

阿岐豆野

天皇が吉野宮(奈良県吉野町宮滝付近にあった離宮)に御出ましになった時、吉野川の岸に童女を見かけました。その容姿が美しかったので、この童女と結婚あそばされて宮にお帰りになりました。
その後、さらにまた吉野に御出ましになった時、童女と出会った所に留まり、そこに大御呉床(足を組んで座るための台)を置いて、そこに座って琴を弾き、童女に舞をさせました。すると、童女が見事に舞ったので、天皇は次の御製をお詠みになりました。

呉床居の 神の御手もち 弾く琴に 儛する女 常世にもがも
(呉床に座り、神の御手で弾く琴に合わせて舞をする乙女よ。その姿は永久にこのままであって欲しいものだ。)

また、阿岐豆野(吉野宮付近の野原か)に御出ましになって狩りをなさった時、天皇はまた御呉床にお座りになりました。すると、虻が天皇の腕を刺し、さらに蜻蛉(とんぼ)が来てその虻を喰って飛んでいきました、そこで天皇は次の御製をお詠みになりました。

み吉野の 小室が岳に 猪鹿伏すと 誰そ 大前に奏す やすみしし、我が大君の 猪鹿待つと 呉床に坐し 白侾の 袖着そなふ 手腓に そのあむを 蜻蛉早咋ひ かくの如く 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ
(吉野の小室の山に猪が潜んでいると、一体誰が天皇の御前に申し上げたのか。我が大君が、猪を待って呉床に座っていると、袖をきちんと揃えて着ている腕のふくらみに、虻が喰いつき、その虻を蜻蛉が素早く喰った。このことを称えて名を負わせ、大和国を蜻蛉島(秋津嶋)という。)

そこで、その時よりその野を名付けて阿岐豆野というのです。

一言主大神

またある時、天皇は葛城山(奈良県と大阪府の境にある金剛山地の山)にお登りになりました。その時、大猪が現れ、天皇が鳴鏑でその猪を射ると、その猪が怒って唸りながら走り寄って来ました。そこで、天皇はその唸りを恐れて楱の木(ハンノキ)の上にお登りになりました。そこで、天皇は次の御製をお詠みになりました。

やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の み猪の うたき畏み 我が逃げ登りし あり丘の 楱の木の枝
(我が大君が狩りをして、猪、しかも傷ついた猪の唸り声を恐れ、私が逃げ登った、その丘のハンノキの枝よ。)

またある時、天皇が葛城山にお登りになった時、多くの官人たちは、ことごとく赤い紐を付けた青染めの衣服を与えられていました。その時、向かいの山の尾根から、山の上に登ってくり人たちがいました。ところが、その人たちの行列は、すっかり天皇の行列と同じで、またその装束の様子や人々も、どちらも似ていてそっくりでした。
そこで、天皇がご覧になって「この大和国には私をおいて王はいないのに、今、どういう人がそのように行くのか」と尋ねさせると、答える様子もまた、天皇の言葉と同じでした。
「それならば名を名乗れ、そしてそれぞれ名乗ってから矢を放とう」とお尋ねになると「私が先に問われたので、私が先に名乗ることにしよう。私は凶事も一言で、吉事も一言で言い分ける神、葛城の一言主大神である」とお答えになりました。
天皇はすっかり恐縮なさり「畏まりました。私は現身の人間ですから、あなたが大神であられるとは存じませんでした。」と申し上げて、大御刀や弓矢をはじめとして、多くの官人たちの着ている衣服を脱がせ、拝んで献りました。すると一言主大神は、喜びの柏手を打ってその捧げ物をお受け取りになりました。そして天皇がお帰りになろうとすると、大神は、山の峰から長谷山の麓までお送りになりました。一言主大神は、このようにしてこの時お姿をお見せになったのです。
また、天皇が丸邇の佐都紀臣の娘、袁杼比売と結婚しようと春日(奈良県春日野町)に御出ましなった時、媛女と道で出逢いましたが、天皇の行列を見て岡の辺りに逃げ隠れたので、天皇は次の御製をお詠みになりました。

媛女の い隠る岡を 金鉏も 五百箇もがも 鋤き撥ぬるもの
(乙女が隠れている岡を、金属製の鋤が五百丁もあれば、その鋤で鋤いて土を取りのけて乙女を見付けるのに。)

そこで、その岡を名付けて金鉏岡(所在未詳)というのです。

三重の采女の大御盞

また、天皇が長谷の枝の繁った欅の下で豊楽をあそばれた時、伊勢国の三重(三重県北部)の采女が大御盞を捧げて奉りました。「采女」とは地方豪族出身の朝廷に仕える女子のことです。すると、その繁った欅の葉が落ちて盃に浮かびました。ところが、その采女は落ち葉が盃にうかんでいることに気づかずに、そのまま大御酒を天皇に奉りました。
天皇が盃に浮かんだ葉をご覧になり、采女を打ち伏せ、太刀でその首に当てて斬ろうとした時、采女が天皇に「私を殺さないで下さい。申し上げることがあります」と申し上げました。そして次の歌を詠みました。

纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日がける宮 竹の根の 根足る宮 木の根の 根延ふ宮 八百土よし い築きの宮 真木栄く 檜の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下つ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は あり衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞に 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに 是しも あやに畏し 高光る 日の御子 事の 語り言も 是をば
(纏向の日代宮(第十二代景行天皇の宮)は、朝日の照る宮、夕日の輝く宮、竹の根が垂れてはびこる宮、木の根が延びてはびこる、たくさんの赤土を使って土台をしっかりと築き固めた宮です。檜造りの、新嘗祭の御殿に生えている、よく繁った欅の枝は、上の枝は天を覆い、中の枝は東国を覆い、下の枝は西国を覆っています。上の枝の枝先の葉は、中の枝に落ちて触れ、中の枝の枝先の葉は、下の枝に落ちて触れ、下の枝の枝先の葉は、三重の女が捧げている立派な盃に、浮いた脂のように落ちて浮かび、水を「こおろ、こおろ」と掻き回して固まった島のように浮かび、これは誠に畏れ多いでございます。日の御子に、このことを語ってお伝えいたします。)

この歌を奉ったので、天皇はその罪をお赦しになりました。すると、大后が次の御歌をお詠みになりました。

倭の この高市に 小高る 市の高処 新嘗祭に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 そが葉の 広りいまし その花を 照りいます 高光る 日の御子に 豊御酒 献らせ 事の 語り言も 是をば
(大和のこの高い土地にある市の、小高くなっている所の、新嘗祭の御殿に生えている、葉の広く繁った神聖な椿の、その葉のように広くゆったりとしておいでで、その花のように照っていらっしゃる日の御子に、豊御酒を差し上げてください。このことを語ってお伝えします。)

そして天皇が次の御歌をお詠みになりました。

ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領巾取れ懸けて 鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て 今日もかも 酒水漬くらし 高光る 日の宮人 語り言も 是をば
(宮殿の官人たちは、鶉のような白い斑点模様の布を肩にかけて、鶺鴒(セキレイ)が尾を動かすように、裾を引きずって行ったり来たりさせ、庭の雀のように群がっていて、今日もまあ酒宴をしているようだ。日の宮の官人たちよ、このことを語って伝えよう。)

この三首は天語歌です。「天語歌」とは、語り継がれた歌、もしくは語り伝える歌というような意味と思われます。
そして、天皇はこの豊楽で三重の采女をお誉めになって、多くの褒美を賜いました。またこの豊楽に日に、春日の袁杼比売が大御酒を奉った時、天皇は次の御製をお詠みになりました。

水濯く 臣の嬢子 秀罇取らすも 秀罇取り 堅く取らせ 確堅く 弥堅く取らせ 秀罇取らす子
(臣下の乙女が酒瓶を持っているが、酒瓶を持つときはしっかりと持ちなさい。底をしっかりと、しっかりと持ちなさい。酒瓶を持つ乙女よ。)

これは宇岐歌です。「宇岐歌」とは、「うき」は「盞」のことなので、酒を勧める歌を意味すると考えられます。そして袁杼比売が次の歌を詠んで奉りました。

やすみしし 我が大君の 朝とには い倚り立たし 夕とには い倚り立たす 脇机が下の 板にもが あせを
(我が大君が朝に寄りかかり、夕方にも寄りかかる、あの肘置きの下の板に、私はなりたいものです。愛しい方よ。)

これは志都歌です。
天皇の御年は百二十四歳。己巳年(西暦489年)八月九日に崩御あそばされました。御陵は河内の多治比の高鷲にあります。(比定地:大阪府羽曳野市島泉、陵名:丹比高鷲原陵、古墳名:高鷲丸山古墳・平塚古墳)

第二十二代 清寧天皇

二皇子の舞

雄略天皇の御子の白髪大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと、白髪命)は伊波礼(奈良県桜井市西部から橿原市南東部にかけての地域)の甕栗宮(所在未詳)において天下をお治めになりました。第二十二代清寧天皇です。
この天皇には皇后は無く、また御子も無かったため、御名代として白髪部(白髪命の名にちなんだ部民)をお定めになりました。そのため、天皇が崩御あそばされた後、天下を治めるべき王がいらっしゃいませんでした。(御陵の記載はなし。比定地:大阪府羽曳野市西浦、陵名:河内坂門原陵、古墳名:西浦白髪山古墳)
そこで皇位を受け継ぐ王を尋ね求めると、葛城の忍海の高木角刺宮(所在未詳)にいらっしゃる市辺忍歯別王(いちのへのおしはのみこ、市辺之忍歯王)の妹の忍海郎女、またの名は飯豊王が皇位をお継ぎになることになりました。
ところで、山部連小楯が針間国(播磨国、兵庫県南部)の長官に任じられた時、小楯がその国の人民である志自牟(しじむ)の新築の宴会を訪れました。
盛んに宴会をし、盛り上がりも最高潮となって、順番に皆で舞を舞うことになりました。この時、火を焚く係の少子が二人、竈の傍にいて、その少子たちにも舞わせました。
すると、そのうちの一人が「兄上が先に舞ってください」と言い、その兄もまた「おまえが先に舞いなさい」と言い、このように譲り合ったので、集まっていた人たちは、その譲り合う様子を笑いました。
そしてようやく兄が舞い終え、次に弟が舞おうとしたところ、調子をつけて言いました。

物部の、我が夫子が、取り佩ける、大刀の手上に、丹画き著け、其の緒は、赤幡を載せ、赤幡を立てて、見れば、い隠る、山の三尾の、竹をかき苅り、末押し靡かすなす、八絃の琴を調ぶる如く、天の下治めたまひし、伊耶本和気の天皇の御子、市辺の押歯王の、奴末。
(武人の我が兄上が佩いている太刀の柄に、赤い色を塗りつけ、その紐には赤い布を飾り、赤い旗を立てると、幾重にも重なって見えない山の峰の竹を刈り、その竹の先をなびかせるように、また八絃の琴を奏でるようにして、天下をお治めになった、伊耶本和気天皇(履中天皇)の、御子の市辺之押歯王の、今は奴になっている、その子が私である。)

そこで小楯連は聞き驚いて、床から転げ落ちて、その家の人たちを追い出し、その二柱の王子(意祁命と袁祁命)を左右の膝の上に載せ、泣き喜んで、人々を集めて仮宮を作り、その仮宮にお連れして、早馬の使者を走らせました。すると、その叔母の飯豊王はそれを聞き喜んで、角刺宮にお迎えになりました。

意祁命と袁祁命の歌垣

さて、袁祁命(おけのみこと、顕宗天皇)が天下をお治めになる以前のこと、平群臣の祖である志毘臣が歌垣の場に立ち、袁祁命が求婚しようとしていた美人の手を取りました。その娘子は菟田首らの娘、名は大魚といいます。
すると袁祁命もまた歌垣の場に立ちました。

大宮の 彼つ端手 隅傾けり
(宮殿の、あちらの方の隅が傾いているではないか。)

このように詠んで、その歌の下の句を求めたところ、袁祁命が次のようにお歌を詠みました。

大匠 拙劣みこそ 隅傾けれ
(大工の棟梁が下手だから、隅が傾いたのだ。)

そこで志毘臣がまた次の歌を詠みました。

王の 心を緩み 臣の子の 八重の柴垣 入り立ちたずあり
(王の心が緩んでいるから、臣下の者の幾重にも張り巡らした柴垣のうちに入って来られないのだ。)

そこで王子がまた次のお歌を詠みました。

潮瀬の 波折りを見れば 遊び来る 鮪が端手に 妻立てり見ゆ
(浅瀬の波が崩れるのを見ていると、泳いで来た鮪の鰭のところに、妻が立っているのが見える。)

そこで志毘臣がいよいよ怒って次の歌を詠みました。

大君の 王子の柴垣 八節結り 結り廻し 切れむ柴垣 焼けむ柴垣
(大君の御子の垣根は、たくさんの結び目で結ばれているが、切れる柴垣だ。焼けてしまう柴垣だ。)

そこで王子がまた次のお歌を詠みました。

大魚よし 鮪突く海女よ 其が離れば 心恋しけむ 鮪突く志毘
(鮪を突く海女よ。乙女が遠く離れて行ったら、うら悲しいだろう。鮪突く志毘よ。)

このように歌を詠み合って、夜を明かしてそれぞれ帰りました。
翌朝になり、意祁命(後の仁賢天皇)と袁祁王の二柱は相談して「だいたい朝廷の人たちは、朝は朝廷に参上するが、昼は志毘の門に集まっている。が、今は志毘はきっと寝ている。また、その門にも人もいない。だから、今でなければ実行は難しいだろう」と言って、軍勢を集めて志毘臣の家を囲み、そして殺しました。
こうして二柱の王子たちは、それぞれ天下を譲り合いました。意祁命は、弟の袁祁命に譲って「針間の志自牟の家に住んでいた時、あなたが名を明かさなかったら、こうして天下を治める君主にはならなかった。これはまさにあなたの功績だ。なので、私は兄であるけれど、やはりあなたがまず天下を治めなさい」と言いました。そのため、辞退することができずに袁祁命がまず天下をお治めになりました。

第二十三代 顕宗天皇

市辺忍歯王の遺骨

伊弉本別王(いざほわけのみこ、履中天皇)の御子の市辺之忍歯王の御子である袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)は、近飛鳥宮(所在未詳)で八年の間天下をお治めになりました。第二十三代顕宗天皇(けんぞう)です。近飛鳥宮の所在については定説が無く、大阪府羽曳野市飛鳥や奈良県明日香村八釣などが候補に挙げられています。天皇は石木王の娘の難波王を娶りましたが、子はありませんでした。
この天皇が、父王の市辺王(市辺之忍歯王)の御骨をお探しになった時、淡海国(近江国、滋賀県)に住む賎しい老嗢(おみな)が参上して「王子の御骨を埋めた所を、私はよく知っています。また、王子の御骨であることは、その御歯を見れば分るでしょう」と申し上げました。市辺王の御歯は三枝のような押歯(八重歯)だったのです。
そこで人を集めて土を掘り、御骨を探し求めると、御骨を見付けたので、蚊屋野の東の山に御陵を作って葬り、韓袋の子らにその御陵を守らせました。そうした後に、その御骨をお持ちになって河内にお戻りになりました。
そして、お戻りになると天皇は、その老嗢を思し召しになり、忘れずにその地を覚えていたことをお誉めになって、名を賜い置目老嗢と名付け、さらに宮中に思し召して手厚くおもてなしになりました。
そして、老嗢の住む家を宮の傍に作り、毎日のように必ずお召しになりました。そのため、鐸(ぬりて、釣鐸のような形をした大型の鈴)を御殿の戸に吊るし、老嗢を呼ぼうと思し召された時は、必ず鐸を引き鳴らしました。そうして、天皇は次の御製をお詠みになりました。

浅芽原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸響くも 置目来らしも
(芽の低い草原や小さな谷を過ぎて、鐸の音が遠くまで響いている。きっと置目が来ていることだろう。)

そうこうするうちに置目老嗢が「私はひどく老いてしまいました。故郷に退きたいと思います」と申し上げました。そこで申し出のとおりに故郷に帰ろうとする時、天皇はお見送りになって、次の御製をお詠みになりました。

置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ
(置目よ。近江の置目よ。明日からは山に隠れて見えなくなってしまうのか。)

天皇は、かつて父が殺される災難に遭ってお逃げになった時に、猪甘の老人にその御粮を奪われたことがありました。そこで天皇はその老人をお探しになりました。そして、探し出すと、呼び出して飛鳥河(河内を流れる川)の河原で切り殺し、その一族の膝の筋を断ち切りました。
こういうわけで、今に至るまで、その子孫が大和に上る日は、必ず自然と足が不自由になり、足を引きずるのです。そして、その子孫に老人のいた所をよく見させ、見せしめとしました。そこでその地を志米須というのです。

掘られた大長谷天皇の御陵

天皇は、父王を殺した大長谷天皇(雄略天皇)を深くお恨みになり、その霊に報復したいと思し召されました。そこで、大長谷天皇の御陵を壊そうと、人を御差遣になったところ、兄の意祁命が「この御陵を破壊するのに他人を遣わすべきではありません。もっぱら私が行き、天皇の御心のままに破壊して参りましょう」と申し上げました。
そこで天皇は「それならば言葉のとおりにおいでになりなさい」と仰せになりました。こういうわけで意祁命は自ら下り進んで、少しだけその御陵の傍を掘り、帰り上って復奏(勅使が天皇に結果を報告すること)をして「御陵を掘り壊しました」と申し上げました。
すると天皇は、あまりに早く帰り上ってきたことを不思議に思し召され「どのように破壊したのか」とお尋ねになると、意祁命は「少しだけその陵の傍の土を掘りました」と答えて申し上げました。天皇が「父王の仇に報復したいなら、必ずことごとく陵を破壊するのに、どうして少ししか掘らなかったのか」とお尋ねになると「父王の恨みとして霊に報復したいと思うのは、それはもっともなことです。しかしながら、その大長谷天皇は父の怨敵ではあるけれども、一方では私たちの父の従兄弟であり、また、天下をお治めになった天皇でもあります。ここで今、単に父の仇という意志によって、天下をお治めになった天皇の御陵をことごとく壊したならば、後の人々は必ず非難するでしょう。ただし、父王の仇には報復しなければならないため、その陵の傍を少しだけ掘ったのです。すでにこの辱めによって、後世に示すには十分です」と申し上げました。
このように奏上したので、天皇は「それもまた大いに道理にかなうことで、お言葉のとおりでよしとしましょう」と仰せになりました。
そして、天皇が崩御あそばされると、次に意祁命が皇位をお受け継ぎになりました。天皇の御年は三十八歳。天下をお治めになること八年。御陵は片岡の石坏岡の辺りにあります。(比定地:奈良県香芝市北今市、陵名:傍丘磐坏丘南陵)

第二十四代 仁賢天皇

袁祁王(顕宗天皇)の兄の意祁王は石上の広高宮(奈良県天理市)において天下をお治めになりました。第二十四代仁賢天皇です。
天皇が、大長谷若建天皇(雄略天皇)の御子の春日大郎女を娶って生んだ子は、高木郎女。次に財郎女。次に久須毘郎女。次に手白髪郎女(後の継体天皇)。次に小長谷若雀命(後の武烈天皇)。次に真若王。また、丸邇の日爪臣の娘、糠若子郎女を娶って生んだ子は、春日小田郎女。この天皇の御子は併せて七柱。
この中の小長谷若雀命が次に天下をお治めになりました。(仁賢天皇の御陵は、比定地:大阪府藤井寺市青山、陵名:埴生坂本陵、古墳名:野中ボケ山古墳)

第二十五代 武烈天皇

小長谷若雀命は長谷の列木宮(なみきのみや、奈良県桜井市出雲か)において天下をお治めになること八年でした。第二十五代武烈天皇です。
この天皇には太子がいらっしゃらなかったので、御子代として小長谷部をお定めになりました。御子代とは、皇族に子がない時に、その名を伝えるために設けた部民とされています。御陵は片岡の石坏岡にあります(比定地:奈良県香芝市今泉、陵名:傍丘磐坏丘北陵)。

天皇が崩御あそばされて、皇位を受け継ぐべき王がいらっしゃいませんでした。そのため、品陀天皇(第十五代応神天皇)の五世の子孫である袁本杼命(おほどのみこと、後の継体天皇)を近淡海国(近江国、滋賀県)から上らせて、手白髪命手白髪郎女、仁賢天皇の皇女)と結婚させて天下を授け奉りました。

第二十六代 継体天皇

品陀天皇(応神天皇)の五世の子孫である袁本杼命は伊波礼(奈良県桜井市西部から橿原市なあ東部にかけての地域)の玉穂宮(奈良県桜井市池之内か)で天下をお治めになりました。第二十六代継体天皇です。
天皇が、三尾君らの祖である、名は若比売を娶って生んだ御子は、大郎子。次に出雲郎女。併せて二柱。また、尾張連らの祖である凡連の妹、目子郎女を娶って生んだ御子は、広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと、後の安閑天皇)、次に建小広国押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと、後の宣化天皇)。併せて二柱。また、意祁天皇(仁賢天皇)の御子で大后となった手白髪命を娶って生んだ御子は、天国押波流岐広庭命(あめくにおしはるひろきひろにわのみこと、後の欽明天皇)、一柱。また、息長真手王の娘、麻組郎女を娶って生んだ御子は、佐佐宜郎女、一柱。また、坂田大俣王の娘、黒比売を娶って生んだ御子は、神前郎女。次に茨田郎女。次に馬来田郎女。併せて三柱。また、茨田連小望の娘、関比売を娶って生んだ御子は、茨田大郎女。次に白坂活日子郎女。次に野郎女。またの名は長目比売。併せて三柱。また、三尾君加多夫の妹、倭比売を娶って生んだ御子は、大郎女。次に丸高王。次に耳王。次に赤比売郎女。併せて四柱。また、安倍之波延比売を娶って生んだ御子は、若屋郎女。次に都夫良郎女。次に阿豆王。併せて三柱。継体天皇の御子たちは、男七、女十二、併せて十九柱の王。

この中の天国押波流岐広庭命(欽明天皇)が天下をお治めになりました(ただし、欽明天皇の即位は、実際は次の安閑天皇・宜化天皇の後)。次に広国押建金日命(安閑天皇)が天下をお治めになりました。次に建小広国押楯命(宜化天皇)が天下をお治めになりました。そして、佐佐宜王は伊勢の神宮に仕えました。

継体天皇の御世において、竺紫君石井が天皇の命に従わずに、無礼なことが多くありました。そのため、物部荒甲之大連と大伴之金村連の二人を遣わせて、石井を殺させました。
天皇の御年は四十三歳。丁未年(西暦527年)四月九日に崩御あそばされました。御陵は三嶋の藍陵です。(比定地:大阪府茨木市太田、陵名:三嶋藍野陵、古墳名:太田茶臼山古墳)

第二十七代 安閑天皇

体天皇の御子の広国押建金日命は勾の金箸宮(奈良県橿原市曲川町)において天下をお治めになりました。第二十七代安閑天皇(あんかん)です。
この天皇には御子がいらっしゃいませんでした。乙卯年(西暦535年)三月十三日に崩御あそばされました。御陵は河内の古市の高屋村にあります。(比定地:大阪府羽曳野市古市、陵名:古市高屋丘陵、古墳名:高屋築山古墳)

第二十八代 宣化天皇

安閑天皇の弟の建小広国押楯命は檜坰(ひのくま)の盧入野宮(奈良県明日香村檜前)において天下をお治めになりました。第二十八代宣化天皇(せんか)です。
天皇が、意祁天皇(仁賢天皇)の御子の橘之中比売命を娶って生んだ御子は、石比売命(後の欽明天皇后)。次に小石比売命(後の欽明天皇妃)。次に倉之若江王。また、川内之若子比売を娶って生んだ御子は、火穂王。次に恵波王。この天皇の御子たちは、男王が三柱、女王が二柱、併せて五柱です。そして、火穂王は、志比陀君(摂津国河辺郡椎田、の祖です。(宣化天皇の御陵は、比定地:奈良県橿原市鳥屋町、陵名:身狭桃花鳥坂上陵、古墳名:鳥屋ミサンザイ古墳)

第二十九代 欽明天皇

宣化天皇の弟の天国押波流岐広庭天皇は師木島の大宮(奈良県桜井市外山)において天下をお治めになりました。第二十九代欽明天皇です。
天皇が、檜坰天皇(宣化天皇)の御子の石比売命(宣化天皇の皇女)を娶って生んだ御子は、八田王。次に沼名倉太玉敷命(後の敏達天皇)。次に笠縫王。併せて三柱。また、その妹の小石比売命(宣化天皇の皇女)を娶って生んだ御子は、上玉、一柱。また、春日之日爪臣の娘の糠子郎女を娶って生んだ御子は、春日山田郎女。次に麻呂古王。次に宗賀之倉王。併せて三柱。また、宗賀之稲目宿禰大臣の娘の岐多斯比売を娶って生んだ御子は、橘之豊日命(後の用明天皇)。次に妹の石坰王。次に足取王。次に豊御気炊屋比売命(後の推古天皇)。次にまた麻呂古王。次に大宅王。次に伊美賀古王。次に山代王。次に妹の大伴王。次に桜井之玄王。次に麻怒王。次に橘本之若子王。次に泥杼王。併せて十三柱。また、岐多斯比売命の叔母の小兄比売を娶って生んだ御子は、馬木王。次に葛城王。次に間人穴太部王(後の用明天皇皇后)。次に三枝部穴太部王、またの名は須売伊呂杼。次に長谷部若雀命(後の崇峻天皇)。併せて五柱。すべてこの天皇の御子たちは併せて二十五柱の王。

この中の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が天下をお治めになりました。次に、橘之豊日命(用明天皇)も天下をお治めになりました。次に、豊御気炊屋比売命(推古天皇)も天下をお治めになりました。次に長谷部若雀命(後の崇峻天皇)も天下をお治めになりました。
このように、併せて四柱の王が、天下をお治めになりました。(欽明天皇の御陵は、比定地:奈良県明日香村平田、陵名:檜隈坂合陵、古墳名:平田梅山古墳)

第三十代 敏達天皇

欽明天皇の御子の沼名倉太玉敷命は他田宮(奈良県桜井市戒重)において天下をお治めになること十四年でした。第三十代敏達天皇(びだつ)です。
この天皇が、庶妹の豊御気炊比売命(欽明天皇の皇女)を娶って生んだ御子は、静貝王、またの名は貝鮹王。次に竹田王、またの名は小貝王。次に小治田王。次に葛城王。次に、宇毛理王。次に小張王。次に多米王。次に桜井玄王。併せて八柱。また、伊勢大鹿首の娘の小熊子郎女を娶って生んだ御子は、布斗比売命。次に宝王、またの名は糠代比売王。併せて二柱。また、息長真手王の娘の比呂比売命を娶って生んだ御子は、忍坂日子人太子、またの名は麻呂古王。次に坂謄王。次に宇遅王。併せて三柱。また、春日中若子の娘の老女子郎女を娶って生んだ御子は、浪速王。次に桑田王。次に春日王。次に大俣王。併せて四柱。この天皇の御子たちは併せて十七柱の王。

その中の忍坂日子人太子が、庶妹の田村王、またの名は糠代比売命を娶って生んだ御子は、岡本宮で天下を治めた天皇(後の第三十四代舒明天皇)。次に中津王。次に多良王。併せて三柱。また、漢王の妹の大俣王を娶って生んだ御子は、知奴王。次に妹の桑田王。併せて二柱。この太子の御子は併せて七柱の王。

天皇は甲辰年(西暦584年)四月六日に崩御あそばされました。御陵は川内の科長にあります。(比定地:大阪府太子町太子、陵名:河内磯中尾陵、古墳名:太子西山古墳)

第三十一代 用明天皇

敏達天皇の弟の橘之豊日命が池辺宮(奈良県桜井市阿部)において天下をお治めになること三年でした。第三十一代用明天皇です。
この天皇が、宗賀之稲目宿禰大臣の娘の意富芸多志比売を娶って生んだ御子は、多米王、一柱。また、庶妹の間人穴太部王(欽明天皇の皇女)を娶って生んだ御子は、上宮之厩戸豊聡耳命(聖徳太子)。次に久米王。次に植栗王。次に茨田王。併せて四柱。また、当麻之倉首比呂の娘の飯之子を娶って生んだ御子は、当麻王。次に妹の須賀志呂古郎女。

この天皇は、丁未年(西暦587年)四月十五日に崩御あそばされました。御陵は石寸の掖上(奈良県桜井市池之上)にありましたが、後に科長の中陵に移しあそばされました。(比定地:大阪府太子町春日、陵名:河内磯長原陵、古墳名:春日向山古墳)

第三十二代 崇峻天皇

用明天皇の弟の長谷部若雀命は倉椅の柴垣宮(奈良県桜井市倉橋)において天下をお治めになること四年でした第三十二代崇峻天皇です。
壬子年(西暦592年)十一月十三日に崩御あそばされました。御陵は倉椅の辺りにあります。(比定地:奈良県桜井市倉橋、陵名:倉梯岡陵)
戊子年(西暦628年)三月二十五日に崩御あそばされました。御陵は大野岡の辺りにあります。後に科長の大陵に移しました。(比定地:大阪府太子町山田、陵名:磯長山田陵、古墳名:山田高塚古墳)