はじめに現れた神
天地(あめつち)が初めて発れた時、高天原(たかまのはら)に成ったのは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)でした。間もなく高御産巣日神(たかみむすひひのかみ)、続けて神産巣日神(かみむすひのかみ)が成りました。この三柱は、いずれも独神(ひとりがみ)で、すぐに御身をお隠しになりました。(独神とは、男女の区別がない神で、男神と女神の両方の性質をお備えになった神なのです。)
この時、大地はまだ若く、水に浮く脂のようで、海月のように漂っていて、しっかりと固まってはいませんでした。
葦の芽が伸びてきたところから、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)が成り、続けて、天之常立神(あめのとこたちのかみ)が成りました。この二柱も独神ですぐにお隠しになりました。これまでの五柱は、天地が発れて早い時期に成った特別な神なので、別天神(ことあまつのかみ)と申し上げます。
その後、次々と神が成ります。
まず、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、豊雲野神(とよくもののかみ)が成りますが、この二柱も独神です。(すぐに御身をお隠しになりました。)
次に初めて、男神と女神が成ります。宇比地邇神(うひじにのかみ)とその妻の須比智邇神(すひちにのかみ)です。(この二柱は兄と妹の関係ですが、夫婦になりました。)⇒神々の世界では理想的ですが、人間では禁忌とされています。
次に、角杙神(つのくいのかみ)とその妻の活杙神(いくぐいのかみ)、
次に、意富斗能地神(おおとのじのかみ)とその妻の大斗乃弁神(おおとのべのかみ)、
次に、於母陀流神(おもだるのかみ)とその妻の阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)、
次に、伊邪那岐神(いざなきのかみ)とその妻の伊邪那美神(いざなみのかみ)が成りました。
(日本列島をお生みになる重要な神です。)
別天神 |
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天之御中主神 |
高御産巣日神 |
神産巣日神 |
宇摩志阿斯訶備比古遅神 |
天之常立神 |
神世七代 | |
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一代 | 国之常立神 |
二代 | 豊雲野神 |
三代 | 宇比地邇神/須比智邇神 |
四代 | 角杙神/活杙神 |
五代 | 意富斗能地神/大斗乃弁神 |
六代 | 於母陀流神/阿夜訶志古泥神 |
七代 | 伊邪那岐神/伊邪那美神 |
伊邪那岐神と伊邪那美神の国生み
天の神(高天原の神全体)は、その総意により、伊邪那岐神と伊邪那美神に、下界の海をお示しになり、「この漂っている国を修め理(つく)り固め成せ」と命ぜられ、美しい玉で飾られた天の沼矛を賜い、ご委任なさいました。
天空に浮いてかかる天の浮橋にお立ちになり、海に矛を下ろし、海水を「こおろ、こおろ」とかき鳴らして引き上げました。その先から海水がしたたり落ち、塩が固まって島ができました。これが淤能碁呂島(おのごろしま)です。(どの島かは未詳。)
淤能碁呂島を拠点にして、次々と島をお生みになります。
高天原の神々と心を心を通じ合わせるために、天之御柱をお立てになり、続けて、大きな神殿の八尋殿をお建てになりました。
天之御柱を廻り逢って、美斗能麻具波比(みとのまぐわい)をあそばされ、国をお生みになることになさいました。
生まれてきたのは、手足のない水蛙子(ひるこ)でした。その子を葦の船でお流しになりました。次に生まれたのも淡島で、不完全な島でした。
高天原にお帰りになって、天つ神に指示を求めました。太占(ふとまに)で占ったところ、「女の方から先に言ったのは良くなかった」ことが分かりました。
淤能碁呂島に戻って、再び天之御柱を回って、今度は、伊邪那岐神から先に「あなたは、なんていい女だろう」と言って交わると、次々に立派な国が生まれました。
一番初めにお生みになった子は、淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま=淡路島)でした。
続けて伊予之二名島(いよのふたなのしま=四国)をお生みになりました。
胴体は一つで顔が四つあります。
伊予国(愛媛県)を愛比売(えひめ)といい、
讃岐国(香川県)を飯依比古(いいよりひこ)といい、
粟国(阿波国、徳島県を大宜都比売(おおげつひめ)といい、
土左国(土佐国、高知県)を建依別(たけよりわけ)といいます。
次に、隠岐之三子島(島根県、隠岐諸島)をお生みになりました。またの名は、天之忍許呂別(あめのおしごろわけ)と言います。
次に、筑紫島(九州)をお生みになりました。この島も胴体は一つで、顔が四つあります。
筑紫国(福岡県)を白日別(しらひわけ)といい、
豊国(大分県と福岡県の一部)を豊日別(とよひわけ)といい、
肥国(熊本県、佐賀県、長崎県)を建日向日豊久士日沼別(たけひむかひとよくじひぬわけ)といい、
熊曾国(南九州)を建日別(たけひわけ)と言います。
次に、伊岐島(長崎県の壱岐島)をお生みになりました。またの名を天比登都柱(あまひとつはしら)といいます。
次に、津島(長崎県の対馬)をお生みになりました。またの名を天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)といいます。
次に、佐度島(新潟県の佐渡島)をお生みになりました。
次に、大倭豊秋津島(畿内を中心とする地域)をお生みになりました。またの名は天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきづねわけ)と言います。
このように、八島が先に生まれたことによって、我が国のことを大八島国(おおやしまのくに)というのです。
二柱の神は、お帰りになる時に、吉備児島(岡山県の児島半島)をお生みになりました。またの名は建日方別(たけひかたのわけ)といいます。
次に、小豆島(あずきしま、小豆島)をお生みになりました。大野手比売(おおのでひめ)といいます。
次に、大島(山口県の周防大島、正式名:屋代島か)をお生みになりました。またの名は、大多麻流別(おおたまるわけ)といいます。
次に、女島(おみなしま、大分県国東半島の東北にある姫島か)をお生みになりました。またの名は、天一根(あまひとつね)といいます。
次に、知訶島(ちかのしま、長崎県の五島列島)をお生みになりました。またの名は天之忍男(あめのおしお)といいます。
次に、両児島(ふたごのしま、五島列島南の男女群島の男島・女島)をお生みになりました。またの名は天両屋(あめのふたや)といいます。
このようにしてまた六つの島をお生みになり、「国生み」が終わりました。
これで日本の国土が完成しました。
伊邪那岐神と伊邪那美神の神生み
伊邪那岐神と伊邪那美神は、大八島に住むべき神々をお生みになります。
初めに生まれたのは、住居に関わる七柱の神、続けて海の神、河の神など、水に関わる三柱の神、そして、風の神、木の神、山の神、野の神大地に関わる四柱の神です。
最後に、船の神、食べ物の神、火の神の生産に関わる三柱の神、併せて十七の神が生まれました。
また、その途中で、河の神である速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)の二柱の神が、河と海を分け持って泡、波、水面など、河と水に関する八柱の神を生みました。そして、山の神の大山津見神(おおやまつみのかみ)と野の神の鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)の二柱が、山と野を分け持って、山頂、霧、渓谷など、山野に関する八柱の神を生みました。
これら十六柱の神は、伊邪那岐神と伊邪那美神の孫にあたります。
住居に関する神 ⇒ 七神
大事忍男神(おおことおしおのかみ) → 多くの神が生まれる前兆の神か
石土毘古神(いわつちびこのかみ) → 岩や土の神
石巣比売神(いわすひめのかみ) → 岩や砂の女神
大戸日別神(おおとひわけのかみ) → 未詳
天之吹男神(あめのふきおのかみ) → 屋根を葺くことの神か
大家毘古神(おおやびこのかみ) → 家屋の神。後に大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)を助ける
風木津別之忍男神(かぜもつわけのおしおのかみ) → 風の神
水に関わる神 ⇒ 三神
大綿津見神(おおわたつみのかみ) → 海の神
速秋津日子神(はやあきつひこのかみ) → 水戸神(みなとのかみ)。河口の神
速秋津日売神(はやあきつひめのかみ) → 水戸神(みなとのかみ)。河口の女神
大地に関わる神 ⇒ 四神
志那都比古神(しなつひこのかみ) → 風の神
久久能智神(くくのちのかみ) → 木の神
大山津見神(おおやまつみのかみ) → 山の神
鹿屋野比売神(かやのひめのかみ) → 野の神。別名・野椎神(のづちのかみ)
生産に関わる神 ⇒ 三神
鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)→ 船の神。別名・天鳥船神(あめのとりふねのかみ)
大宜都比売神(おおげつひめのかみ) → 穀物の神。粟国の神名と同じだが別神か
火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ) → 火の神。別名・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、
火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)
以上の十七柱の神は、伊邪那岐神と伊邪那美神が交わってお生みになった神です。
速秋津日子神と速秋津日売神が河と海を分け持って生んだ河と水に関する神 → 八神
沫那芸神(あわなぎのかみ) → 泡の神
沫那美神(あわなみのかみ) → 泡の女神
頬那芸神(つらなぎのかみ) → 水面の神
頬那美神(つらなみのかみ) → 水面の女神
天之水分神(あめのみくまりのかみ) → 灌漑の神、分水嶺の意
国之水分神(くにのみくまりのかみ) → 灌漑の神、分水嶺の意
天之久比奢母智神(あめのくひぎもちのかみ)→ 灌漑の神、水を汲むための容器を持っているという意
国之久比奢母智神(くにのくひぎもちのかみ)→ 灌漑の神、水を汲むための容器を持っているという意
大山津見神と野椎神(鹿屋野比売神)が山と野を分け持って生んだ山野に関する神 → 八神
天之狭土神(あめのさづちのかみ) → 土の神、山地の狭くなった所の意
国之狭土神(くにのさづちのかみ) → 土の神、山地の狭くなった所の意
天之狭霧神(くにのぎりのかみ) → 霧の神、後に大国主神の子孫に嫁ぐ
国之狭霧神(くにのぎりのかみ) → 霧の神
天之闇戸神(あめのくらとのかみ) → 渓谷の神
国之闇戸神(くにのくらとのかみ) → 渓谷の神
大戸或子神(おおとまといこのかみ) → 未詳、谷間で迷う意か
大戸或女神(おおとまといめのかみ) → 未詳、谷間で迷う意か
しかし、ここで悲しい出来事がありました。火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が生まれるとき、伊邪那美神は御陰(女性器)に深刻な火傷を負わせられました。病床でお苦しみになりながらも「神生み」は続きます。
伊邪那美神は、病床で嘔吐し、糞尿を垂れ流します。吐いたゲロからは鉱山の神、大便から土の神、尿からは水の神、生成の神が成りました。
伊邪那美神の嘔吐物から成った神 → 二柱
金山毘古神(かなやまびこのかみ) → 鉱山の神
金山毘売神(かなやまびめのかみ) → 鉱山の女神
伊邪那美神の大便から成った神 → 二柱
波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ) → 土の神
波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ) → 土の女神
伊邪那美神の尿から成った神 → 二柱
弥都波能売神(みつはのめのかみ) → 水の女神
和久産巣日神(わくむすひのかみ) → 生成の神、若々しい生成力の意
また、生成の神である和久産巣日神の子は、穀物の神である豊受気毘売神(とようけびめのかみ)です。
豊受気毘売神は、後に天照大御神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る神として、伊勢神宮の外宮に祭られることになる極めて重要な神です。
伊邪那岐神の懸命な看病の甲斐もなく、伊邪那美神は、ついに神避(むささ)りあそばされました。(「神避る」とは、神が亡くなることです。」)
伊邪那岐神と伊邪那岐神の二柱の神がお生みになった島は、十四(とおあまりよつ)の島です。また、お生みになった神は三十五柱(みそちあまりいつはしら)です。ただし、蛭子と淡島は子の数には入れません。
伊邪那岐神は「愛しい我が妻の命を、子一人の命とかえることになるとは思いもしなかった。」とお嘆きになり、伊邪那美神の枕元に腹ばいになり、また足元に腹這いになって涙を流して泣いておいでになりました。その涙から、香山(かぐやま)の畝尾(うねお)の木本(このもと)(奈良県橿原市木之本町)に鎮座する泣沢女神(なきさわめのかみ)がなりました。
伊邪那岐神は、伊邪那美神の亡骸を、出雲国(島根県)と伯伎国(伯耆国、ほうきこく、鳥取県西部)の境にある比婆之山に葬りました。(鳥取県安来市の比婆山か)
伊邪那岐神は、悲しみが募り、ついに腰に帯びていた十拳剣(とつかのつるぎ)で生まれたばかりの火之迦具土神の首を切りました。
首を刎ねられた火之迦具土神の体から、炎がほとばしり、辺り一面真っ赤な血液が吹き出し、そこからまた新たな神が成りました。
剣の切っ先についた血が、岩に走りつくと、三柱の岩と剣の神が成りました。
石析神(いわさくのかみ)
根析神(ねさくのかみ)
石箇之男神(いわつつのおのかみ)
剣の根元に付いた血が、岩に飛び散ると、三柱の雷と火の神が成りました。
甕速日神(みかはやひのかみ)
樋速日神(ひはやひのかみ)
建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)
またの名を建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)
剣の柄に溜まった血が伊邪那岐の指の間からあふれ出ると、雨を呼ぶ滝の神と水の神の二柱が成りました。
闇淤加美神(くらおかみのかみ)
闇御津羽神(くらみつはのかみ)
これら八柱の神は、刀を伝った血液から生まれた神です。
そのうえ、殺された火之迦具土神の体からも次々と神が成ります。
頭から成ったのは、 正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ) → 山の坂の神
胸から成ったのは、 淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)
腹から成ったのは、 奥山津見神(おくやまつみのかみ) → 山奥の神
男根から成ったのは、 闇山津見神(くらやまつみのかみ) → 谷間の神
左の手から成ったのは、志芸山津見神(しぎやまつみのかみ)
右の手から成ったのは、羽山津見神(はやまつみのかみ) → 端にある山の神
左の足から成ったのは、原山津見神(はらやまつみのかみ) → 山の原の神
右の足から成ったのは、戸山津見神(とやまつみのかみ) → 山の入り口の神
併せて八柱の山の神々です。(これら山津見神八柱と、すでに「神生み」で生まれている大山津見神との関係は未詳。別の神と考えるのが妥当。)
そして、斬るのに用いた十拳剣(とつかのつるぎ)は、またの名を天之尾羽張、またの名を伊都之尾羽張といいます。
黄泉国
遺された伊邪那岐神は一人お悲しみになり、ついに、亡き伊邪那美神を追って黄泉国へお出掛けになりました。すると、黄泉国の、伊邪那美神がお住みになる御殿の固く閉じた扉が開き、伊邪那岐神は、伊邪那美神と再会なさいます。
伊邪那岐神が「美しき我が妻よ、私とあなたが作る国は、まだ出来上がっていない。一緒に帰ろう。」と仰せになると、伊邪那美神は、次のようにお答えになりました。
「もう少し早く迎えに来てくだされば良かったのですが、残念なことに、私は黄泉国の食べ物を食べてしまったので、この世界の住人になってしまいました。もう戻ることはできません。でもあなた様がせっかくいらしてくださったのですから、なんとか帰りたいと思います。黄泉の神々と相談してまいりますので、その間、決して私を見ないと約束して下さい。」
このように言い残して、伊邪那美神は御殿の戸をお閉めになりました。伊邪那岐神はしばらくお待ちになりましたが、待てどくらせど、伊邪那美神はお戻りになりません。
待ちきれなくなった伊邪那岐神は、約束を破って御殿の中にお入りになりました。ところが、殿内は真っ暗です。伊邪那岐神は左右に束ねた髪の左側に刺してあった湯津津間櫛(ゆつつまぐし、神聖な櫛)の男柱(櫛の両端の太い歯)を一本折って、それに火を灯しました。
すると、伊邪那岐神の目に飛び込んできたのは、腐敗して蛆(うじ)にまみれた、変わり果てた姿の伊邪那美神だったのです。
そして、伊邪那美神の体には恐ろしい雷神(いかづちのかみ)が成り出でていました。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、右手には析雷、左手には若雷、左足には鳴雷、そして右足には伏雷がいました。
伊邪那岐神はびっくりして逃げました。ところが、醜い姿を見られた伊邪那美神は「私に恥をかかせたな!」と仰せになり、予母都志許売(よもつしこめ)に後を追わせたのです。
伊邪那岐神は必死に逃げます。追いつかれそうになったので、伊邪那岐神は髪に巻き付けていた黒御縵(くろみかずら)という蔓草を投げました。すると、蔓が勢いよく茂り、葡萄の実がなったのです。醜女は葡萄にむしゃぶりつきました。
その隙をついて伊邪那岐神は逃げます。しかし、猛烈な勢いで葡萄を食べつくした醜女は、その後もしつこく追って来ました。
次に伊邪那岐神は、左右に束ねた髪の、今度は右側に刺してあった湯津津間櫛(ゆつつまぐし)を、醜女に投げつけました。すると、今度は筍が生えてきたのです。醜女は筍を抜き、次々に食べていきます。伊邪那岐神は、またこの隙に逃げました。
しかし、伊邪那岐神を追うのは醜女だけではありませんでした。八種(やくさ)の雷神と千五百の黄泉の軍勢も追って来ます。どれも怖い顔をした悪霊です。
伊邪那岐神は、腰に差していた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて後手(しりえで)に振りながら走りました。うしろ手で何かをすることは、相手を呪う行為です。
伊邪那岐神は、ようやく黄泉国と現実の世界の境にあたる黄泉比良坂(よみつひらさか)に差し掛かり、そこに一本の桃の木を見つけます。急いで桃の実を三個取り、投げつけると、どうしたことか、悪霊たちはすっかり勢いを失い、逃げ帰りました。
桃の実に命を助けられた伊邪那岐神は、桃の木に「私を助けたように、葦原中国(葦の茂る地上の世界。特に日本を指す。)に住むうつくしき青人草(あおひとくさ)(現世(うつしよ)の人。「人間」への言及はここが初出。)が苦しみ悩む時、同じように助けなさい。」と仰せになり意富加牟豆美命(おおかむずのみこと)と名前を賜りました。
ところが、最後の最後に、伊邪那美神が、腐り、蛆がわいた自らの体を引きずりながら追って来ました。伊邪那岐神は、千人がかりでようやく動かせるという、千引の石(ちびきのいわ)と呼ばれる巨大な岩で黄泉比良坂を塞ぎました。ちなみに、昔から岩石は悪霊邪気の侵入を防ぐものと信じられていました。
そうして、伊邪那岐神と伊邪那美神は、大石を挟んで向き合いました。伊邪那岐神が夫婦離別の呪文である「事戸(ことど)」を述べると、伊邪那美神は「愛しい夫がそのようにするのであれば、あなたの国の人々を一日に千人絞め殺しましょう!」と恐ろしい声をあげました。
それに対して、伊邪那岐神は「愛しき妻がそのようにするのであれば、私は一日に千五百の産屋を建てよう!」と仰せになりました。
かくして、現世では一日に必ず千人が死に、千五百人が生まれることになりました。
黄泉国に残った伊邪那美神は、黄泉津大神(よもつおおかみ)と呼ばれるようになり、また、その追いついたことをもって道敷大神(みしきのおおかみ)と名付けられました。
そして、黄泉比良坂を塞いだ大石を道返之大神(みがえしのおおかみ)、または塞座黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)と呼ぶようになりました。
その黄泉比良坂は、今、出雲国(島根県)の伊賦夜坂(いふやさか)といいます。
このように、伊邪那美神は黄泉の大神として、そして伊邪那岐神は現世(うつしよ)の大神として、全く別の道をお進みになることになったのです。
天照大御神の誕生
黄泉国からお帰りになった伊邪那岐神は「自分はいやな、見る目も厭わしい穢れた国に行ってしまった。禊をして身を清めなくては」と仰せになり、竺紫(つくし)の日向(ひむか、所在未詳。)の橘小門(たちばなのおど、河口の意か。)の阿波岐原(あわぎはら)に御出ましになりなり、禊祓いをなさいました。
伊邪那岐神は、御身に着けていらっしゃるものを次々とお外しになりました。この時に多くの神が成りました。
投げ捨てた御杖から成ったのが、海の道しるべの神である衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)、
次に投げ捨てた御帯から成ったのが、長い道の岩の神である道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)、
次に投げ捨てた御嚢(みふくろ)から成ったのが、時間を司る神である時量師神(ときはからしのかみ)、
次に投げ捨てた御衣から成ったのが、煩いの主の神である和豆良比能宇斯能神(わずらいのうしのかみ)、
次に投げ捨てた御褌(みはかま)から成ったのが、分かれ道の神である道俣神(ちまたのかみ)、
次に投げ捨てた御冠(みかがふり)から成ったのが、口を開けて穢れを食う神である鮑咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)、
次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成ったのが、沖の神である奥疎神(おきざかるのかみ)、沖の渚の神である奥津那芸佐毘古神(おきつなぎさびこのかみ)、沖と浜辺の間の神である奥津甲斐弁羅神(おきつかいべらのかみ)。
次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成ったのが、浜辺の神である辺疎神(へざかるのかみ)、浜辺の渚の神である辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)、沖と浜辺の間の神である辺津甲斐弁羅神(へつかいべらのかみ)。
ここまでに成った六柱は海路の神です。このように、御身に着けたものをお外しになることによって十二柱の神が成りました。
御身に着けたものをすべてお外しになった伊邪那岐神は、禊をお始めになります。「上の瀬は流れが速い、下の瀬は流れが弱い」と仰せになり、中の瀬に潜り、御身をおすすぎになりました。その時に成ったのが禍(わざわい)の神である八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と、凶事を引き起こす神である大禍津日神(おおまがつひのかみ)です。この二柱の神は、黄泉国の垢から成った神です。
次に、その禍(まが)を直そうとして成ったのが、凶事を吉事に変える神である神直毘神(かむなおひのかみ)と大直毘神(おおなおびのかみ)、清浄な女神である伊豆能売(いずのめ)です。
次に、水の底で御身をおすすぎになった時に成ったのが、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)と底箇之男命(そこつつのおのみこと)です。
中ほどで御身をおすすぎになった時に成ったのが、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)と中箇之男命(そこつつのおのみこと)です。
そして、水面で御身をおすすぎになった時に成ったのが、上津綿津見神(うえつわたつみのかみ)よ上箇之男命(うわつつのおのみこと)です。
三柱の綿津見神は筑前(福岡県)で海人集団を率いた豪族、安曇連(あずみのむらじ)の祖先にあたります。そして、安曇連らは、その綿津見神の子の宇都志日金析命(うつしひかなさくのみこと)の子孫です。
この底箇之男命・中箇之男命・上箇之男命の三柱の神は航海の神で、墨江(大阪府住吉区の住吉大社)の三前(みまえ、三社)の大神として祭られ、住吉大神(すみよしのおおかみ)と呼ばれています。墨江の三前の大神は、後に第十四代仲哀天皇に神託を与え、これに従わなかった天皇の命を奪い、そして神功皇后の新羅遠征を守護した神として後で再び語られます。
さて、伊邪那岐神は最後にお顔をおすすぎになりました。左の御目をお洗いになった時に成ったのが、天にましまして照りたもう神である、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、左の御目をお洗いになった時に成ったのが、月の神である、月読命(つくよみのみこと)、お鼻をお洗いになった時に成ったのが、嵐の神で勇猛迅速に荒れすさぶる神である、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。
八十禍津日之神から建速須佐之男命までの十四柱の神は、御身をおすすぎになったことで生まれた神です。
この時、伊邪那岐神は大変お喜びになり「自分は子をたくさん生んできたが、その果てに三柱の貴い子(三貴子、みはしらのうずのみこ)と仰せになり、自らが付けていらっしゃった首飾りを天照大御神に賜い、「高天原を知らせ(治めろ)」と命ぜられました。この首飾りは、ゆらゆらと揺らすと美しい音が鳴ります。また名を御倉板挙之神(みくらたなのかみ)といいます。御倉の棚の上に安置する神という意味です。
そして、月読神には、夜之食国(夜の世界)を知らすように、また建速須佐之男命には海原を知らすように命ぜられました。
しかし、伊邪那岐神から海原を知らすように命ぜられた建速須佐之男命は、国を治めず、泣きわめいてばかりいらっしゃいました。須佐之男命が泣いたことで青々とした山々はことごとく枯れ山となり、河も海もことごとく干上がってしまいました。
嵐神とされる須佐之男命の泣く様子は、まるで暴風雨を連想させるようなものではないでしょうか。
激しい雨と風が山津波を起こして木々を押し流して枯れ山とし、また、その涙に水が奪われて河と海が干上がる様を思い起させます。これにより、悪しき神の声が夏の蠅のように満ちあふれ、ありとあらゆる災いが起こりました。
伊邪那岐神が心配なさって「どうして国を治めずに泣いてばかりいるのか」とお尋ねになると、須佐之男命は「私は亡き母の国の根之堅州国に参りたいのです。だから泣いているのです。」とお答えになりました。須佐之男命は伊邪那美神を「母」と思っていらっしゃったようです。
それをお聞きになった伊邪那岐神はお怒りになり「ならばおまえはこの国に住んではいけない」と仰せになって、須佐之男命を追放しました。
ところで、その伊邪那岐大神は、今では淡海(おうみ)の多賀(たが、滋賀県多賀町の多賀大社)に鎮座していらっしゃいます。
追放された須佐之男命は、その後どうなってしまうのでしょう。ここからは天照大御神と須佐之男命を中心とする新しい物語が展開します。
天照大御神と須佐之男命
誓約(うけい)
追放された須佐之男命は、黄泉国にいらっしゃる母の伊邪那美神のところにおいでになる前に、高天原に上り、天照大御神に報告することになさいました。
須佐之男命は追放されて心が荒ぶっていらっしゃったので、天に舞い上がる時、山、川、土はことごとく揺れ動きました。
天照大御神はその異様な事態に驚き「我が弟が高天原にやってくるのは、きっとたくらみがあるに違いない、国を奪うつもりかもしれない」と仰せになり、完全武装で弟が来るのにお備えになりました。
天照大御神は髪を解いて、左右に分けて耳の辺りでお束ねになりました。戦いに備えて男装なさったのです。そして、髪と左右の手には八坂勾玉(やさかのまがたま)の五百津(いおつ)のみすまるの球(多くの玉を緒に通した飾り)を巻き持ち、背には千本の矢が入った靫(ゆぎ、矢を入れる武具)を、また、脇には五百本の矢が入った靫を付け、稜威竹鞆(いつのたかとも、「鞆」は左肘に着ける革製の武具で、弓の反動を受けるもの)を装着し、弓を起こして、堅い地面に股まで踏み入れ、地を雪のように踏み散らかし、威勢よく雄叫びをあげ、臨戦態勢で弟と対峙なさいました。
「なぜ高天原にやってきたのか」とお尋ねになると、須佐之男命は次のように申し上げました。「私には邪心はありません。ただ伊邪那岐大神の仰せで、私が泣きわめくことをお尋ねになったので、『私は、亡き母の国に行きたいと思って泣いているのです』と申し上げました。そこで大神が『おまえはこの国にいてはならない』と仰せになり、追放なさったので、まかりゆくことになったことを申し上げようと思い、参上したのです。やましい心はありません」と申し上げました。
しかし、天照大御神は簡単には納得なさいません。「ならば、あなたの心が清明なることはどのようにして知ることができるか」と仰せになりました。
そこで須佐之男命は「お互いに誓約(うけい)をして子を生みましょう」と提案なさいます。誓約とは、予め決めたとおりの結果が現れるかどうかで吉兆を判断する占いの一種です。
二柱の神は天の安の河(高天原に流れる河)を挟んでお立ちになり、初めに天照大御神が、須佐之男命の帯びていた十拳剣(とつかのつるぎ)を手に取って、三段に打ち切り、勾玉を揺らしながら雨之真名井(あめのまない、高天原にある神聖な水を汲む井戸)の水ですすぎ、噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は多紀理毘売命(たきりびめのみこと)、またの名は奥津島比売命。続けて成ったのは市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、またの名は狭依毘売命(さよりびめのみこと)。そして次に成ったのは多岐都比売命(田寸津比売命)。こうして、須佐之男命の剣からは三柱の神が成りました。
そして、今度は須佐之男命が、天照大御神の左の御みづら(角髪)に巻いてあった勾玉を手に取り、ゆらゆらと揺らしながら、天之真名井の水ですすぎ、噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。右の御みづらに巻いてあった勾玉を、噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は天之菩卑能命(あめのほひのみこと、天之比神、あめのほひのかみ)。御縵(みかずら、蔓草を輪にして頭に巻き付けた飾り)に巻いてあった勾玉を、噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は天津日子根命(あまつひこねのみこと)。左の御手に巻いてあった勾玉を、噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は活津日子根命(いくつひこねのみこと)。右の御手に巻いてあった勾玉を、噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は熊野久須毘命(くまのくすびこのみこと)。このように天照大御神の勾玉から五柱の神が成りました。
誓約が終わると、天照大御神は「後に生まれた五柱の男の子は、自分の物から成ったから自分の子です。先に生まれた三柱の女の子は、あなたの物から成ったから、あなたの子です」と仰せになりました。
そして、誓約で生まれた三柱の女神の一柱である多紀理毘売命は、胸形(むなかた)の奥津宮(福岡県宗像市沖之島の宗像大社奥津宮)に鎮座しています。次に市寸島比売命は、胸形の中津宮(宗像市大島の宗像大社中津宮)に鎮座しています。次に田寸津比売命は、胸形君(むなかたのきみ)らが祭る三前(みまえ)の大神(三社から成る宗像大社)です。
そして、同じく誓約で生まれた五柱の男神の一柱である天菩比命の子、建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は、出雲国造(いずももくにのみやっこ)、无耶志国造(むざしのくにのみやっこ)、上菟上国造(かみつうなかみのくにのみやっこ)、伊自牟国造(いじむのくにのみやっこ)、津嶋県直(つしまのあがたのあたい)、遠江国造(とおつおうみのくにのみやっこ)らの祖です。
また、五柱の男神のもう一柱である天津日子根命は、凡川内国造(おおしこうちのくにのみやっこ)、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)、木国造(きのくにのみやっこ)、倭田中直(やまとのたなかのあたい)、山代国造(やましろくにのみやっこ)、馬来田国造(うまぐたのくにのみやっこ)、道尻岐閇国造(みちのしりのきへのくにのみやっこ)、周芳国造(すわのくにのみやっこ)、倭淹知造(やまとのあむちのみやっこ)、高市県主(たけちのあがたぬし)、蒲生稲寸(かもうのいなき)、三枝部造(さきくさべのみやっこ)らの祖です。
すると、須佐之男命は「自分の心が明るく清いから、たおやかな女の子が生まれたのです。だから、私の勝ちだ」と仰って、勝ち誇ったように、天照大御神の田の畔を壊し、溝を埋め、しかも大嘗(新嘗祭、神に新穀を供える神事)を行う神聖な御殿に糞をまき散らして、高天原で大暴れしました。
須佐之男命のひどい行いにもかかわらず、天照大御神はこれをお咎めにならず、次のように仰せになって弟をおかばいになりました。「糞をまいたというのは、酔って吐いたものでしょう。また田の畔を壊し、溝を埋めたのは、土地が惜しいと思ったからでしょう」
しかし、弟の悪態はひどくなる一方でした。天照大御神が機織小屋で神の衣を織らせていると、須佐之男命はその小屋の屋根に穴をあけ、尻の方から皮を剥いだ馬を落とし入れました。その時、機織女はびっくりして、梭(ひ、機の横糸を通す道具)で、陰上(ほと、女性器)を突き刺して死にました。
これには天照大御神も黙ってはいらっしゃいませんでした。天の岩屋戸(高天原にある洞窟の入口を塞いでいる岩)をお開けになって、洞窟の中にお引き籠りになったのです。
すると、高天原は暗闇に包まれました。葦原中国(あしはらのなかつくに)もことごとく暗くなりました。昼が来ない夜だけの世界になり、万の神の声が夏蠅のように満ちあふれ、万の災いがことごとく起こるようになったのです。
天の岩屋戸
八百万の神(大勢の神々)は困りに困り、天の安の河原に集まって、いろいろと考えを巡らせましたが、良い考えは無く、結局は「知恵の神」である思金神(おもいかねのかみ)に相談することに決めました。思金神は高御産巣日神(たかみむすひのかみ、天地初発で成った高天原三神のうちの一柱)の子で、思慮を兼ね備えた神です。思金神の考えた方策は「祭り」でした。さっそく神々は祭りの準備に取り掛かります。
まず、常世の長鳴鳥(ながなきどり、ニワトリ)が集められ、一斉に鳴かされました。ニワトリが鳴くと太陽が昇ることから、ニワトリを鳴かせることは太陽の出現を促す呪術だったのです。常世とは常世国のことで、海の彼方にあると考えられた異郷です。
次に、天の安の河原の上流にある天の堅石(鉄を鍛えるのに使う堅い石)を取り、天の金山(高天原の鉱山)の鉄を取り、鍛冶屋を探して、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)これで必要な神器が揃いました。ちなみに、この時作られた鏡と玉が、後に天孫降臨によって高天原から地上にもたらされ、やがて天皇の皇位の印である「三種の神器」のうちの二つになります。
そして、天児屋命(あめのやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)をお召しになって、天の香山(かぐやま)の牡鹿の肩の骨を抜き取って、天の香山のカニワ桜を取ってきてその骨を焼いて占わせると、にぎやかな祭りが始まりました。天の香山の、枝ぶりよく茂った榊を根ごと掘り出して、上の枝には八尺勾玉の五百箇の御すまるの珠を取り付け、また中の枝には八尺鏡(やたのかがみ、大きな鏡)を取り付け、下の枝に木綿と麻の布を取り垂らし、この見事な供え物を布刀玉命が取り持ち、天児屋命が祝福の祝詞を奏上しました。天照大御神がお隠れになった天の岩屋戸のすぐ脇には、腕力の神様である天手力男神(あめのてじからおのかみ)が隠れ立ち、戸が緩むのを待ちました。
神楽が始まりました。踊り手は天宇受売命(あめのうずめのみこと)です。天の香山の日陰蔓を襷にかけ、天之真析(サンカクヅル)を髪飾りにして、天の香山の笹の葉を結って手に持ち、逆さまにした桶を踏み鳴らし、神懸りして、胸乳をあらわに出して、服の紐を陰部の所まで押し下げました。すると、高天原がどよめき、八百万の神がどっと笑ったのです。
この時、天照大御神が不審に思し召して天の岩屋戸を細目にお開きになり、内側から次のように仰せになりました。
「自分が洞窟の中に籠っているから、高天原も葦原中国も暗闇のはずだけど、天宇受売命は歌舞いをし、八百万の神もみな笑っているのは、いったいどうしてなのだろう。」
天宇受売命がそれに答えて「あなた様よりも尊い神がいらっしゃいます。それゆえに、我々は喜び、笑い、舞っているのです。」と申し上げました。
このように申し上げている間に、天児屋命と布刀玉命が、天の岩屋戸の隙間に八尺鏡を差し入れ、天照大御神に鏡をご覧にいれました。すると、天照大御神は鏡に映る自らの御身をご覧になって、自分と同じような太陽の神が別にいると勘違いして、びっくりなさいました。
そして、天照大御神がゆっくりと岩屋戸から外を覗こうとなさった時、戸の脇に隠れていた天手力男神が、御手をつかんで外へ引き出し、すかさず布刀玉命が、後方にしめ縄を張って「これより中に戻ってはなりませぬ!」と申し上げました。
かくして、天照大御神が天の岩屋戸からお出になったので、高天原と葦原中国に、再び明りが戻ったのです。
天照大御神が岩屋戸にお隠れになったのは、須佐之男命の横暴が原因でした。八百万の神は議論をした結果、須佐之男命には罪穢れを祓うための品物を負わせ、髭を切り、手足の爪を抜いて、ついに高天原から追放してしまいます。ここから須佐之男命の新しい物語が展開します。
八岐大蛇
高天原を追放された須佐之男命は、自らの罪を贖うため、神々に供えるための食物を大気都比売神(おおげつひめのかみ)にお求めになりました。大気都比売神は、鼻、口、尻からいろいろな美味しそうな食べ物を取り出して、料理して差し出しました。すると須佐之男命は、その様子をご覧になって、大気都比売神が食べ物をわざと穢して差し出したのだと勘違いなさいます。須佐之男命は大気都比売神を殺しました。
すると、殺された大気都比売神の体から、次々と大切なものが生ったのです。頭からは蚕、二つの目からは稲、二つの耳からは粟、鼻からは小豆、陰部からは麦、尻からは大豆が生りました。これらを拾い上げさせたのは、天地初発の時に成った神で、別天神の一柱とされる神産巣日神(かむむすひのかみ)です。神産巣日神はこれらを「種」として地上にお授けになります。これが五穀の種の起源なのです。排泄物から料理を作った神の屍から五穀が生ったことは、排泄物はやがて大自然に還り、また食物になるという「物質循環の仕組み」を暗示しているのではないでしょうか。この逸話から、排泄物も資源であることに気づかされます。
須佐之男命は、出雲国(島根県)の斐伊川の上流の鳥髪という所にお降りになりました。そして、うっそうと繁る森の中で、須佐之男命はお腹を空かせていらっしゃいました。するとこの時、川の上流から箸が流れてきました。須佐之男命は川上に誰か住んでいるとお考えになり、川をお上りになりました。
すると、やはり川上に家がありました。しかし、どうしたことか老人夫婦が娘を挟んで泣いていたのです。名前をお尋ねになると「自分は国つ神(葦原中国の神が天つ神に対して自らへりくだって用いる表現)、大山津見神の子で、名は足名椎、妻の名は手名椎、娘の名は櫛名田比売と申します」と言いました。大山津見神は出雲の地の守護神で、神生みの時に生まれた「山の神」のことです。
続けて泣いているわけをお尋ねになると、翁は「私には八人の娘がいたのですが、毎年、山俣遠呂知(やまたのおろち)が来て一人ずつ食べてしまうのです。残るのは、一人になってしまいました。今こそその怪物がやってくる時期なのです」と答えました。そして、「その遠呂知の姿形はどのようか」とお尋ねになると、「その目は赤かがちのように赤く、頭は八つ、尾が八つ、その身には苔、檜、杉などが生え、体の大きさは八つの谷、八つの峰に渡り、その腹を見ればことごとく血がにじんでいます」と申し上げました。「赤かがち」というのは、今にいう「ホオズキ」のことです。
そこで須佐之男命は「あなたの娘を私に献上するか」とお尋ねになりました。老人が「畏れ多いことです。しかし、あなた様のお名前も存じ上げません」と申し上げると「自分は天照大御神の弟である。いま天より降りてきた」と自らの身分を明らかになさいました。それを聞いた足名椎と手名椎の神は「さようでいらっしゃるなら、畏れ多いことです。娘を差し上げましょう」と申し上げました。
そこで、須佐之男命は、その娘を湯津爪櫛(神聖な櫛)に変えて、御自分の髪に刺して、怪物を退治するための準備をするよう、足名椎と手名椎の神に次のように命じられました。「八度繰り返して醸造した強い酒を用意し、垣根を巡らせて、そこに八つの穴をあけて、穴ごとに台を置き、それぞれに酒船(酒を入れる器のこと)を置き、強い酒を満たして待ちなさい」。
そして準備が整い、怪物が現れるのを待っていると、本当に聞いたとおりの姿をした八俣遠呂知が現れたのです。八俣遠呂知は八つの酒船にそれぞれの頭を突っ込んで、がぶがぶと強い酒を飲み始め、しばらくすると酒が回って、その場でぐっすりと眠ってしまいました。須佐之男命の目論見どおりです。
そこで須佐之男命は、腰に佩いていた十拳剣を抜いて、寝ている蛇に切りかかりました。真っ赤な血がほとばしり、斐伊川は朱に染まりました。
須佐之男命がその尾をお切りになった時、何か堅いものに当たって十拳剣の刃が欠けてしまいました。これは怪しいと思し召し、覗くようにご覧になると、蛇の尾から、それはそれは神々しい剣が出てきました。草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。須佐之男命は高天原にいらっしゃる天照大御神に、このことを報告あそばされ、草薙剣を献上なさいました。この草薙剣が、やがて皇位の印「三種の神器」の一つになります。
戦いが終わると、須佐之男命は出雲で新婚のための宮殿を作るべき場所をお探しになりました。須賀(島根県雲南市大東町須賀)にお着きになったところで「ここに来て、自分の心はすがすがしい」と仰せになって、その地に宮を作って、お住まいになりました。そのようなことがあったので、その地を「須賀」というのです。これはほとんど駄洒落のようなもので、『古事記』には、このように言葉遊びのように地名の由来を説明する個所がいくつもあります。思えば櫛名田比売を「櫛」にしてしまったのも駄洒落だったのかもしれません。
須佐之男命が須賀の宮をお作りになった時、その地から雲が立ち上がりました。そこで次のお歌をお詠みになりました。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
『古事記』には数々の和歌が収録されていますが、この和歌が一番初めの和歌になります。
平安時代に編纂された『古今和歌集』の序文を著した紀貫之は、この歌を日本最初の三十一文字(和歌)であると述べています。
須佐之男命はここに翁の足名椎を呼び、「おまえを、この宮の首長に命じよう」と仰せになり、稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)の名を賜いました。
須佐之男命と櫛名田比売が寝床で交わってお生みになった神の名は、八島士奴美神(やしまじぬのかみ)といいます。さらに、須佐之男命が大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘で名は神大市比売(かむおおいちひめ)を娶ってお生みになった子は、大年神(おおとしのかみ)と宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の二柱です。
ここで『古事記』は八島士奴美神の子孫の血筋を次のように書いています。
八島士奴美神が大山津見神の娘で名は木花知流比売(このはなちるひめ)を娶って生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもじくぬすのかみ)。
この神が、淤迦美神(おかみのかみ、水を司る神)の娘で名は日河比売(ひかわひめ)を娶って生んだ子は、深淵之水夜礼花神(ふかふちのみずやれはなのかみ)。
この神が、天之都度閉知泥神(あめのつどへちねのかみ)を娶って生んだ子は、淤美豆奴神(おみずのかみ、「大水主」か)。
この神が、布怒豆怒神(ふのずののかみ)の娘で名は布帝耳神(ふてみみのかみ)を娶って生んだ子は、天之冬布神(あめのふゆきぬのかみ)。
この神が、刺国大神(さしくにおおのかみ)の娘で名は刺国若比売(さしくにわかひめ)を娶って生んだ子は、大国主神(おおくにぬしのかみ)です。
八島士奴美神の血筋からはこのようにして大国主神が生まれます。須佐之男命の六世孫にあたります。「国を支配する神」という意味の名前を持つこの神には、大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)の四つの別名があります。
そしてこれから先は、大国主神を中心とする物語が展開されます。
大国主神の国作り
稲葉の素兎
大国主神には大勢の兄弟神、八十神がいました。けれども、皆、大国主神に委ねることになりました。そうなったのは次のようなことがあったからです。
大国主神は、始めは大穴牟遅神と呼ばれていました。八十神はみな、稲葉(因幡国、鳥取県東部)に住む八上比売(やがみひめ)に惚れ込み、自分の妻にしたいと考えていました。
彼らが求婚のために稲葉に出かけた時、大穴牟遅神は兄弟の中でもまだ若く、従者として同行し、荷物を背負わらせて行列の一番最後を歩いていました。「袋担ぎ」はかつては身分の低い者の仕事とされていたので、おそらく大穴牟遅神は末っ子だったのでしょう。
八十神一行が気比(因幡国気高郡、鳥取市周辺)の岬の辺りに至ると、毛をむしられて皮膚が真っ赤になった一匹の兎が横たわっているのに出会います。その哀れな兎に、八十神は「海水を浴び、風に当たってから、山の峰の上でうつ伏せになりなさい」と言いました。兎はその教えのとおりに海水を浴び、風に当たり、うつ伏したのですが、浴びた海水が乾くと、その身は風に吹き裂かれ、皮膚はヒビだらけになってしまったのです。兎が痛みに苦しんで泣き伏しているところに、大穴牟遅神が通りかかりました。
大穴牟遅神が泣いている理由を尋ねると、兎は次のように答えました。「私は淤岐島(おきのしま、隠岐島あるいは沖の島)にいて、この地に渡ろうとしましたが、その術がありません。そこで、海に住む和邇(わに)を欺き『私とあなたを比べて、どちらの方が一族の数が多いか数えてあげよう。あなたはありったけの一族をことごとく率いてきて、この島から気多の岬まで、列になって伏して並びなさい。そうしたら私はその上を踏んで、走りながら数を数え、そして私の仲間とどちらが多いか比べてあげよう』と言いました。和邇が騙されて列になって伏すと、私はその上を踏んで、数えながら渡り、まさに地に下りようとしたその時、私が『君たちは私に騙されたのだ』と言い終わるや否や、一番端に伏していた和邇が、私を捕らえて、私の毛をことごとく剥ぎ取ってしまったのです。そこで泣いていると、先にここを取りかかった八十神が『海水を浴び、風邪に当たって伏しなさい』と言うので、その教えのとおりにしたら、我が身はことごとく傷ついてしまいました」。
大穴牟遅神は、痛みに苦しむ兎に次のように教えました。
今すぐ河口に行き、淡水であなたの身を洗い、河口に生える蒲の穂の花粉を取って敷き取らして、その上に寝返りして転がれば、あなたの肌は元のとおりに必ず癒えるでしょう」。
古くから、蒲の花粉には血治、治痛作用があるとされ、用いられてきました。大穴牟遅神の教えは適切なものでした。この逸話によって、大穴牟遅神は「医療の神」ともいわれます。そして、この兎が「稲葉の素兎」で、後に兎神といわれるようになります。
兎は大穴牟遅神に「八十神は、八上比売を得られず、あなた様は、袋を背負う賎しい仕事をしているけれども、必ずや八上比売と結ばれることでしょう」と申し上げました。この予言は見事に的中することになります。神通力のある兎だったのです。実際、八十神は求婚すると、八上比売は八十神に「私はあなたたちの妻になるつもりはありません。大穴牟遅神の妻になるつもりです」と答えて言いました。
八十神は怒り、話し合って大穴牟遅神を殺すことに決めます。伯伎国(伯耆国、鳥取県西部)の手間山(てまのやま、鳥取県と島根県の境にある山)のふもとを訪れると、次のように言いました。「赤い猪がこの山にいる。我々が下の方に追うから、おまえはそれを待ち伏せて捕らえよ。もし捕らえそこなったら、おまえを殺すぞ」。
八十神はこのように言うと、猪の形に似た大石を火で焼いて、山の上から転がしたのです。
何も知らずに猪を待ち構えていた大穴牟遅神は、八十神に言われたとおり、猪を捕らえようと、転がってくる大石に立ち向かっていきました。しかし、かわいそうなことに、大穴牟遅神は赤く、焼けた石に押し潰され、死んでしまったのです。
須佐之男命と大国主神
大穴牟遅神が死んだことを知った母神の刺国若比売は、たいそう嘆き悲しみ、天に昇り、神産巣日之命(神産巣日神)に我が子を助けて頂けるように頼みました。
神産巣日之命は●貝比売(きさかいひめ)と蛤貝比売(うむきひめ)を地上に御差遣になり、大穴牟遅神を生き返らせます。●貝比売は赤貝、蛤貝比売は蛤を擬人化させた神です。●貝比売が削り落とした赤貝の粉を集めて、蛤貝比売がそれを待ち受けて蛤の汁に溶いて薬を作りました。この薬は、火傷治療に用いる古代療法の一つです。二柱の女神が作った薬を大穴牟遅神の体に塗ると、たちまち立派な男に戻り、すっかり元気になりました。
ところが、死んだはずの大穴牟遅神が元気にしているのを見て不思議に思った八十神は、再び謀(はかりごと)を考え巡らしました。
八十神は大穴牟遅神を山に連れて行き、木に切り込みを入れて楔を打ち込み、大穴牟遅神をその割れ目に入れさせてから、その楔を引き抜いて、大穴牟遅神を挟み殺してしまったのです。
また悲しんだのは母神の刺国若比売です。泣きながら我が子を探し出し、大穴牟遅神を木の間から助け出し、今度は自らの力によって生き返らせました。『古事記』にはどのような方法で生き返らせたのか記述はありませんが、とにかく凄い気合です。
刺国若比売は生き返らせた我が子に「あなたがここにいたら、八十神に滅ぼされてしまう」と言って聞かせ、木国(紀伊国、和歌山県)の大屋毘古神のもとへ人眼を避けに遣わせました。
すると、またしても八十神が現れ、弓に矢をつがえて、大穴牟遅神を引き渡すように迫りました。しかし、大屋毘古神は大穴牟遅神を木の俣からこっそりと逃がし「須佐之男命のいらっしゃる、根之堅州国に行きなさい。必ずその大神が、取り計らってくれることでしょう」と言って聞かせました。
大穴牟遅神が言われたとおりに根之堅州国に出掛けると、須佐之男命の娘の須勢理毘売(すせりびめ)と出会いました。二人は目を見つめ合うとたちまち惹かれ合い、すぐに結婚します。
須勢理毘売が家に戻って「とても麗しい神がいらっしゃいました」と父の須佐之男命に申し上げたところ、大神が御出ましになり、大穴牟遅神を一目ご覧になると「これは葦原色許神(あしはらしこお)というのだ」と仰せになりました。そして、大穴牟遅神を呼び入れて蛇の室で寝させようとなさいました。
『日本書紀』には「葦原醜男」とありますが、「シコオ」は「醜い男」といった蔑む意味ではなく、むしろ「強い男」を意味していると考えられています。この時、須佐之男命は、早くも大穴牟遅神を、葦原中国を担う力のある男であると見抜いていらっしゃったのではないでしょうか。
須佐之男命が大穴牟遅神を蛇の室で寝させようとなさったのは、自分の娘が男を紹介し、しかもすでに結婚したことにお怒りになって、いじわるをなさったからかもしれません。もしくは、一定の試練を与えることで、自分の娘を嫁にやる人物として十分かどうか見定めようとなさったのかもしれません。
大穴牟遅神の妻となった須勢理毘売命は、蛇に襲われないための方法を、こっそりと夫に教えます。比礼(ひれ)という、古代の女性がスカーフのような布を授けて「もし蛇が噛み付いてくるなら、この比礼を三回振って打ち払ってください、きっと蛇はおとなしくなります」と教えました。「比礼」は振ることによって呪力を発揮するとされていたのです。大穴牟遅神が言われたとおりにすると、蛇はすっかり静まり、ぐっすりと眠ることができました。
ところが、須佐之男命がお与えになった試練はそれだけではありませんでした。また次の日の夜、大穴牟遅神は、今度は百足と蜂の室に入れられました。けれども、須勢理毘売が、今度は百足と蜂の比礼を夫に渡し、昨日と同じように使うように教えたので、この日も大穴牟遅神はゆっくりと眠ることができました。
根之堅州国からの帰還
しかし、須佐之男命の試練は度を増していきました。今度は鳴鏑(なりかぶら)という、鏑の付いた矢を野原に射こみ、それを拾わせました。
大穴牟遅神が野原に入ると、なんと須佐之男命は火を放ち、野を火で囲んだのです。ここまでくるといささかやり過ぎの気がしますが、大穴牟遅神は結婚を認めてもらおうと必死ですから、この試練も進んで乗り越えようとしました。
ところが、火に囲まれた大穴牟遅神は逃げ場を失って途方に暮れました。絶体絶命の危機です。しかし、そこに一匹の鼠が現れ、大穴牟遅神に向かって「内はほらほら外はすぶすぶ(内側は空洞で、出入り口はすぼまっている)」と言って地面を踏むように合図をしました。
鼠の言うとおりに地面を踏むと、穴が開いて土の中に落ち込みました。その穴は鼠の巣だったのかもしれません。穴の中に隠れている間に火は通り過ぎていき、大穴牟遅神は命をつなぎ止めました。それだけではありません。その鼠が、探していた鳴鏑をくわえて持ってきて、大穴牟遅神に差し出しました。矢の羽を鼠の子どもたちがかじって遊んでいたのです。
火が野原を焼き尽くすのを目の当たりにした須勢理毘売と須佐之男命は、大穴牟遅神は焼け死んだと思いました。須勢理毘売は泣きながら、葬式の道具を持って父の須佐之男命と一緒に焼け跡にやってきました。
ところが、どうしたことでしょう。矢を握りしめた大穴牟遅神と再会したのです。でも、これで二人の結婚が認めれたかといえば、そうではありません。須佐之男命はさらなる試練を大穴牟遅神にお与えになるのです。
須佐之男命は大穴牟遅神を家に連れていき、八田間大室(やたまのおおむろ)という、広くて大きな部屋に入れて、自分の頭の虱(しらみ)を取らせました。ところが、大穴牟遅神が虱を取ろうとして覗くと、頭の上でうごめいているのは虱ではなく、百足でした。またしても、須佐之男命からいやがらせとも思える試練を与えられたのです。
ここで、須勢理毘売が助け船を出してくれます。椋の木の実を大穴牟遅神に手渡し、次のように指示しました。「椋の実を噛んで、ブチブチと音をたて、赤土を口に含んでから、唾と一緒に吐き出せば、大神はきっと、あなたさまが百足を噛み殺していると勘違いするはずです。」。
大穴牟遅神が言われたとおりにすると、須佐之男命は心の中で「けなげな奴だな」と思し召し、安心あそばしてお眠りになりました。
これは絶好の機会です。大穴牟遅神は須佐之男命の髪を束ねて、その部屋の太い柱に結び付け、さらには、五百もの人で引くほどの大きな岩でその部屋の入口を塞ぎ、須勢理毘売を背負って、逃げました。
大穴牟遅神は家を出る時に、生太刀と生弓矢と天の沼琴を持って出ようと考えました。生太刀と生弓矢は、生き生きとした生命にあふれる太刀と弓矢のことで、須佐之男命の武力を象徴するものです。また、天の沼琴とは、お告げをする時に使う琴のことで、須佐之男命の宗教的権威を象徴するものです。しかし、大穴牟遅神はうっかり、天の沼琴の弦を木の枝に触れさせて「ガラーン」と大きな音を立ててしまったのです。この音で大地は揺れ動きました。
須佐之男命は驚き、目をお覚ましになります。須佐之男命は二人を追いかけようとなさって、立ち上がりましたが、髪が柱に結ばれていたので、すぐに走り出すことができませんでした。須佐之男命は勢いで家を引き倒しましたが、それでも髪はほどけず、その間に二人は遠くに逃げ去っていったのです。
髪が解けてようやく走り出した須佐之男命は、地上世界との境である黄泉比良坂までいらっしゃって、遠くをご覧になり、大きな声で大穴牟遅神に向かって叫びました。
「その生太刀と生弓矢で、おまえの兄弟たちをやっつけろ。山の裾、また川の瀬に追っていって打ち払え。そしておまえは大国主神、そして宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)となって国を作り、わが娘の須勢理毘売を正妻として、出雲の山に、地底の石を土台にして太い柱を立て、天空に千木(ちぎ)を高く上げて、壮大な宮殿を建てるんだぞ、この奴(こいつめ)」。
大穴牟遅神は、二つの立派な名前を賜りました。これからは、大国主神と呼ぶことにしましょう。
さて、大国主神は言われたとおり、生太刀と生弓矢で、大人数の兄弟である八十神を、山の裾ごとに、また川の瀬ごとに、次々と追い詰めていき、そして、初めて国をお作りになりました。これが大国主神の国作りの始まりです。
八千矛の神
ところで、大国主命にはすでに八上比売という妻がいらっしゃいました。そこへある日、大国主命が須勢理毘売という新しい妻を連れてお帰りになったのです。八上比売は須勢理毘売に遠慮して、自分の子を木の俣に挟んで実家に帰っていきました。それで、その子を木俣神(きまたのかみ)、またの名を御井神(みいのかみ)といいます。
一族繁栄のためにはたくさんの子どもを儲けなくてはいけませんが、それにしても大国主命は恋多き神でした。ある時、大国主命は、高志国(こしのくに、越国、北陸地方)に沼河比売(ぬながわひめ)という美しい姫がいるとお聞きになり、求婚するためにその家に出掛けて、次のお歌をお詠みになりました。
八千矛の 神の命は 八島国 妻娶きかねて 遠々し 高志の国に 賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有りと聞かして さ呼びひに 呼ばひに 有り通はせ 太刀が緒も 未だ解かずて 襲衣をも 未だ解かねば 嬢子の 寝すや板戸を 押そぶらひ 我が立たせば 引きづらひ 我が立たせれば 青山に 鵼は泣きぬ さ野つ鳥 雉は響む 庭つ鳥 鶏は鳴く 心痛くも 鳴く鳥か 打ち止めこせね いしたふや 天馳使 事の 語り言も 此をば
(八千矛神(大国主命神)は、大八島国で妻を娶ることができないで、遠い遠い越国に賢い女性がいつと聞いて、麗しい女性がいると聞いて、求婚しに出掛け、求婚しに通って、太刀の紐もいまだほどかないうちに、服もいまだ脱がないうちに、乙女が寝ている家の板戸を、何度も押し揺すぶって立っていると、何度も引いて立っていると、青山で鵼が鳴いた。野の雉は騒いでいる。庭の鶏も鳴いている。嘆かわししく鳴いている鳥よ。この鳥どもには鳴き止んで欲しいものだ。天を翔ける使いの鳥よ。このことを語って伝えよう。)
すると、沼河比売は戸を開けずに、家の中から次の二首の歌を詠みました。
八千矛の 神の命の 萎え草の 女にしあれば 我が心 浦渚の鳥ぞ 今こそば 我鳥にらしめ 後は 汝鳥にあらむを 命は な殺せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語り言も 此をば
(八千矛の神(大国主神)よ。私は、なよなよとした草のような女ですから、私の心は入り江の渚にいる鳥のようです。今は私の鳥ですが、やがてはあなたの鳥になるでしょうから、命だけは殺さないでください。天を翔ける使いの鳥よ。このことを語ってお伝えいたしましょう。)
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て たく綱の 白き腕 沫雪の 若やる胸を そ叩き 叩き愛がり 真玉手 玉手差し枕き 股長に 寝は寝さむを あやに な恋ひ聞こえし 八千矛の 神の命 事の 語り言も 此をば
(青山に日が沈むと、暗い夜がやってきます。あなたは朝日のような笑顔でやって来て、たく綱のような私の白い腕や、沫雪のような私の若々しい胸を、そっと触れたり撫でたりして、玉のような私の手を枕にして、いついつまでもお休みになるでしょうから、あまり焦って恋しいとおっしゃらないでください。八千矛神よ。このことを語ってお伝えいたしましょう。)
そして、この夜はお会いにならず、次の日の夜にお会いになったのです。
このように、大国主神と沼河比売は愛の歌を詠み交わしました。これが神語りで、男女の問答歌の始まりです。そして二人は結ばれます。このようにして大国主神は、国を広げるたびに、各地の女性と交わり、多くの子どもを授かっていきます。
国許で悲しい思いをなさっていたのは正妻の須勢理備毘売でした。大国主神が出雲から大和国(奈良県)へ出陣しようとあそばした時、あまりに須勢理毘売が寂しそうにしていらっしゃるので、大国主神は片手を馬の鞍に掛け、片足を鐙に入れて、妻に次のお歌をお詠みになりました。
ぬばたまの 黒き御衣を ま具さに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 是は適はず 辺つ波 そに脱き棄て 山方に蒔きし 茜舂き 染め木が汁に 染め衣を ま具さに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 是し宜し 愛子やの 妹の命 群鳥の 我が群れ去なば 引け鳥の 我が引け去なば 泣かじとは 汝は言ふとも やまとの 一本薄 項傾し 汝が泣かさまく 霧に立たむぞ 若草の 妻の命 事の 語り言も 此をば
(黒い衣をすっかり着込んで、沖の水鳥が胸毛をつくろう時のように、袖の端を広げて胸元を見ても、とても似合わない。浜辺の波が寄せる所に脱ぎ捨て、カワセミのような青い衣をすっかり着込んで、沖の水鳥が胸毛をつくろう時のように 袖の端を広げて胸元を見ても、これも似合わない。浜辺の波が寄せる所に脱ぎ捨て、山の畑に蒔いた茜の根を搗いて、その染め草の汁で染めた衣をすっかり着込んで、沖の水鳥が胸毛をつくろう時のように、袖を広げて胸元を見たら、これはよく似合う。愛しい妻よ、群れる鳥のように私が大勢で群れて行ったならば、一羽の鳥が飛び立った時に、それに誘われてたくさんの鳥が一斉に飛び立つように、私が大勢引かれて行ったならば、泣かないとあなたは言うだろうが、山の辺りのただ一本の薄のように、顎をうな垂れて、あなたはきっと泣くだろう。朝の雨で立ち込める霧のように、ため息が出るだろう。妻よ。このことを語って伝えよう。)
須勢理毘売は酒を持って近くに寄り、次のお歌をお詠みになりました。
八千矛の 神の命や 我が大国主 汝こそは 男にいませば 打ち廻る 島の崎々 掻き廻る 磯の崎落ちず 若草の 妻持たせらめ 我はもよ 女にしあれば 汝を除て 夫は無し 汝を除て 夫は無し 綾垣の ふはやが下に 蚕衾 和やが下に たく衾 騒ぐが下に 沫雪の 若やる胸を たく綱の 白き腕 そ叩き 叩き愛がり 真玉手 玉手差し枕き 股長き 寝をし寝せ 豊御酒 奉らせ
(八千矛神、我が大国主神よ。あなた様は男でいらっしゃいますから、廻る島の岬ごとに、また、廻る磯の岬ごとに、どこにでも、若草の妻をお持ちになることでしょう。しかし、私は女ですから、あなた様を除いては、男はありません。綾織物のふわりとしている下で、カラムシの布団のやわらかな下で、楮の繊維で作った白い布団のざわざわとした下で、泡雪のような若い胸や、楮綱のような白い腕を、そっと触れたり撫でたりして、玉のような手を枕にして、ゆっくりとしてお休みなさいませ。さあ、この御酒をお召し上がりになってください。)
そして二人は盃を交わし、愛する心の変わらないことを固く誓い合い、仲睦まじく、お互いに手を掛け合って、今に至るまで鎮座していらっしゃいます。これも神語です。
葦原中国
大国主神は須勢理毘売の嫉妬に悩まされながらも、その後、領土を広げながら三人の妻をお迎えになり、子孫を繁栄させました。地方の権力者の娘と結婚することは、その土地の神の霊力を手に入れることになると考えられていました。『古事記』には大国主神の妻と子ども、そしてその子孫の名前が次のように記されています。
大国主神が胸形の奥津宮に鎮座している神、多紀理毘売命(たきりびめのみこと)を娶ってお生みになった子は阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)。
次に妹の高比売命(たかひめのみこと)、またの名は下光比売命(したでるひめのみこと)。この阿遅鉏高日子根神は、今は迦毛大御神(かものおおみかみ)といわれています。
大国主神がまた、神屋楯比売命(かみやたてひめのみこと)を娶ってお生みになった子は事代主神(ことしろぬしのかみ)。また、八島牟遅能神(やしまむじのかみ)の娘、鳥耳神(とりみみのかみ)を娶ってお生みになった子は鳥鳴海神(とりなるみのかみ)。
この神が日名照額田費毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちおいこちにのかみ)を娶って生んだ子は国忍富神(くにおしとみのかみ)。
この神が葦那陀迦神(あしなだかのかみ)、またの名は八河江比売(やがわえひめ)を娶って生んだ子は、速甕之多気佐波夜遅奴美神(はやかみのたけさはやじぬのかみ)。
この神が天之甕主神(あめのかみぬしのかみ)の娘、前玉比売(まえたまひめ)を娶って生んだ子は甕主日子神(かみぬしひこのかみ)。
この神が淤迦美神(おかみのかみ)の娘、比那良志毘売(ひならしびめ)を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神(たひりきしまるのかみ)。
この神が比比羅木之其花麻豆美神(ひひらぎのそのはなまずみのかみ)の娘、活玉前玉比売神(いくたまさきたまひめのかみ)を娶って生んだ子は美呂浪神(みろなみのかみ)。
この神が敷山主神(しきやまぬしのかみ)の娘、青沼馬沼押比売(あおぬうまおしひめ)を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神(ぬのおしとみとりなるのかみ)。
この神が若尽女神(わかつくしめのかみ)を娶って生んだ子は天日腹大科度美神(あめのひはらおおしなどみのかみ)。
この神が天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)の娘、遠津待根神(とおつまちねのかみ)を娶って生んだ子は遠津山岬帯神(とおつやまさきたらしのかみ)。
以上の八島士奴美神より遠津山岬帯神までを十七世神(とおあまりななよのかみ)と称します。
大国主神が出雲の御大之岬(三保碕、島根県松江市美保関町の地蔵崎)にいらっしゃった時、海の彼方から天之羅摩船(あめのかがみのふね、ガガイモで作った船)に乗って、鵝(蛾。家畜化した雁との説もある)の皮を丸剥ぎにして作った衣服を着てやって来る神がありました。
大国主神がその神に尋ねるも、答えず、周囲の神たちに尋ねても皆知りませんでした。この時谷蟆(たにぐぐ、ヒキガエル)が「崩彦が知っているでしょう」と申したので、崩彦(くえびこ)を呼んで尋ねてみました。崩彦は山の田の案山子のことで、一本足だから歩くことはできませんが、天の下のことをよく知っている神です。
すると崩彦は「この方は、神産巣日神の御子、少名毘古那神(すくなびこのかみ)でいらっしゃいます」と答えました。
神産巣日神は、『古事記』の冒頭の天地初発のところで、天之御中主神に続けて三番目にこの世に成った神で、天照大御神よりも遥かに古い神です。そして、大国主神が昔、八十神に殺された時に生き返らせたのも、神産巣日神でした。
大国主神が神産巣日神にお伺いを立ててみると「それは自分の子である。私の手の指の間から生まれた子である。おまえと兄弟になってその国を作り堅めなさい。」と仰せになりました。
これにより、大国主神と少名毘古那神の二柱の神は、共に並んでこの国を築き上げました。その後に少名毘古那神は、常世国に行ってしまいました。
良き相棒を失った大国主神はお悲しみになり「自分一人でどうやって国を作っていったら良いのだろう。どの神と私とがこの国を作れば良いのだろうか」と仰せになりました。
この時に海を照らしてやってくる神がありました。その神は「しっかりと私を祭るならば、私が一緒に国を作ろう。もしそうでないなら、国は成り立たないだろう」と仰せになりました。大国主神が「ではどのようにして治め奉れば良いでしょうか」とお尋ねになると、その神は「私を大和の国を青垣のように廻っている山の内の、東の山の上に祭りなさい」とお答えになりました。この神は御諸山の上に坐ます神(三輪山の上に鎮座する神)です。
『古事記』は次に、須佐之男命の子に当たる大年神の妻子とその子孫を紹介しています。大年神の系譜は須佐之男命から先つ国の神に至る重要な系譜と考えられています。
大年神が、神活須毘神(かみいくすびのかみ)の娘の伊怒比売(いのひめ)を娶って生んだ子は、大国御魂神(おおくにみたまのかみ)、韓神(からのかみ)、曾富理神(そほりのかみ)、白日神(しらひのかみ)、聖神の五柱。また、香用比売(かぐよひめ)を娶って生んだ子は、大香山戸臣神(おおかぐやまよおみのかみ)、御年神(みとしのかみ)の二柱。また、天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)を娶って生んだ子は、奥津日子神(おきつひこのかみ)。次に奥津比売命、またの名は大戸比売神(おおへひめのかみ)。この神は人々が拝み祭る竈の神です。次に大山咋神(おおやまくいのかみ)、またの名は山末之大主神。この神は近沫海国(ちかつおうみのくに)の日枝山(ひえのやま)に鎮座し、また葛野の松尾(山城国葛野、京都市西京区の松尾神社)にも鎮座する、鳴鏑を持つ神です。次に生んだのは、庭津日神(にわつひのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)、波比岐神(はひきのかみ)、香山戸臣神(かがやまとおみのかみ)、羽山戸神(はやまとのかみ)、庭高津日神(にわたかつひのかみ)、大土神(おおつちのかみ)またの名は土之御祖神(つちのみおやのかみ)。併せて九柱の神。以上の大年神の子、大国御魂神より大土神まで併せて十六柱の神(実施は十七柱)。
そして、羽山戸神が大気都比売神(おおげつひめのかみ)を娶って生んだ子は、若山咋神(わかやまくいのかみ)、若年神(わかとしのかみ)、妹の若沙那売神(わかさなめのかみ)、彌豆麻岐神(みずまきのかみ)、夏高津日神(なつたかつひのかみ)またの名は夏之売神(なつのめのかみ)、秋毘売神(あきびめのかみ)、久久年神(くくとしのかみ)、久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなねのかみ)。以上の若山咋神(わかやまくいのかみ)より若室葛根まで併せて八柱の神。
このようにして、大国主神はついに葦原中国を完成させ、国作りを終えました。
葦原中国は大変なにぎわいを見せ、その様子は高天原にも伝わりました。
出雲の国譲り
天若日古の派遣
天照大御神は「豊葦原之千秋長五百秋之水穂の国(葦原中国を装飾した言葉)は、我が子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほのみこと、天之穂耳命(あめのおしほみみのみこと))が知らす(治める)べき国である」と仰せになり、天降りさせました。天忍穂耳命は誓約によって成った神です。
天之忍穂耳命は天の浮橋(天と地の境にある橋)にお立ちになって「豊葦原之千秋長五百秋之水穂の国は、ひどく騒がしい」と仰せになり、再びお帰りになって天照大御神にそのように申し上げました。
そこで、高御産巣日神と天照大御神は天の安の河の河原に、八百万の神を集めさせ、思金神に思案させて、次のように詔あそばされました。
「この葦原中国は、我が子の知らす国と委任した国である。しかし、この国には荒ぶる国つ神どもが多いと思われる。どの神を遣わせて荒ぶる神たちを説得させるべきだろうか」。
ここに、思金神をはじめ八百万の神が相談し、「天菩比神(あめのほひのかみ)を遣わすべきです」と申し上げました。天菩比神も誓約によって成った神です。
そして、天菩比神を遣わせましたが、大国主神に媚びへつらってしまい、三年経っても報告に戻ることはありませんでした。そのため、高天原にいらっしゃる高産巣日神と天照大御神はお困りになり、再び諸々の神たちに「葦原中国に天菩比神を遣わせたが、久しく復命が無い。次にどの神を遣わすのが良いだろうか」とお尋ねになりました。
その時、思金神が「天津国玉神の子の天若日子(あめのわかひこ)を遣わすべきです」と提案したので、天之麻迦古弓(立派で光り輝く弓)と天之波波矢(羽の付いた矢の意か)を天若日子に賜い、葦原中国に遣わすことになりました。
かくして、天若日子は葦原中国に降り立ちますが、大国主神の娘の下照比売(したでるひめ、下光比売命)と結婚し、この国を自分のものにしようと企むようになりました。そして八年の歳月が流れました。
いよいよお困りになった高み御産巣日神と天照大御神は、また諸々の神たちに「天若日子が久しく帰ってこない。天若日子が留まっている理由を聞きたいのだが、どの神を遣わせたら良いだろうか」とお尋ねになりました。すると、思金神は「鳴女(なきめ)を遣わすべきです」と答えました。鳴女とは雉のことです。
そして、高御産巣日神と天照大御神は鳴女に「『汝を葦原中国に遣わせたのは、その国の荒ぶる神どもを説得させて従わせるためである。なぜ八年もの間戻らず、連絡もしないのか』と問え」と仰せになりました。すると、天から降りた鳴女は天若日子の家の門の湯津楓(モクセイか)の木に止まり、天つ神から預かった詔を正確に伝えました。
鳴女の言葉を聞いた天佐具売(あめのさぐめ、陰密なものを探り出す巫女)は、これを凶事と判断し「この鳥は、鳴き声が良くないから、射殺すべき」と言って扇動し、天若日子は天つ神から賜った天之羽士弓(ハゼノキで作った神聖な弓)と天之加久矢(光り輝く神聖な矢)で、その雉を射殺してしまったのです。雉の胸を貫通した矢は空へ高く上り、天の安の河の河原においでになった天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の所へ飛んでいきました。高木神とは高御産巣日神の別名です。
事情をご存じでない高木神は、その矢をご覧になって、驚愕なさいました。血が付いた矢は、天若日子に授けた矢だったのです。そこでまた諸々の神たちを集めてその矢を見せ「もし天若日子が命令に背かず、悪しき神を射た矢が届いたのであれば、天若日子には当たるな。もし邪心があったならば、天若日子はこの矢にあたって死ね」と仰せになって、その矢を取り、矢でできた穴から衝き返してお下しになると、矢は寝ている天若日子の胸に当たって、天若日子は死にました。
結局、鳴女は帰りませんでした。「雉の頓使(ひたづかい)」(行ったきり帰ってこない使者)という諺の語源はここにあります。
そこで、天若日子の妻の下照比売の泣く声が風に乗って響き、天に届きました。このようなわけで、天にいる天若日子の父の天津国玉神やその妻子がこれを聞いて、降りて来て泣き悲しみ、その地に亡骸を安置する家である喪屋を作って、川雁を岐佐理持(きさりもち、食物を頭にのせていく者)とし、鷺を掃持(ははきもち、ほうきを持つ物)とし、翡翠(かわせみ)を御食人(みけびと、食事を作る者)とし、雀を碓女(うすめ、米をつく女)とし、雉を哭女(なきめ、泣き女)とし、このようにそれぞれ役割を決めて八日八夜(ようかやよ)にわたって歌舞いをしました。
この時、大国主神の子である阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ、阿遅鉏高日子根神)が訪れて天若日子の喪を弔うと、天から降りて来た天若日子の父や、その妻が泣いて「我が子は死なずに生きていました。我が君は死なずに生きていらっしゃいました」と言って、阿遅志貴高日子根神の手足に取り縋って泣き悲しみました。
高日子根神を天若日子と間違えた理由は、この神の容姿が亡くなった息子ととてもよく似ていたからで、そのために間違えたのです。このようなわけで高日子根神は大いに怒って「私は愛しき友であったからこそ弔いに来たのだ。どうして私を穢れた死人に喩えるのか」と言って、帯びていた十掬剣を抜いてその喪屋を斬り伏せ、足で蹴飛ばしてしまいました。これが美濃国の藍見川(岐阜県美濃市に藍見の地名がある)の河上にある喪山(長良川中流域の山名か)です。その斬るのに用いた太刀の名は大量といいます。またの名は神度剣(かむどのつるぎ)といいます。
そして、高日子根神が怒って飛び去った時、その妹の高比売命(たかひめのみこと、下光比売命)はその御名を明かそうと思い、次の歌を詠みました。
天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷 二渡らず 阿治志貴高日子根の 神そ
(天の上にいらっしゃるうら若い機織女が首にかけておいでの玉をつないだ首飾り。その首飾りの穴の開いた玉が照り輝くように、谷二つにも渡って輝いているのが阿治志貴高日子根神です。)
この歌の形式は夷振(ひなぶり)といいます。
建御雷神の派遣
葦原中国への神の派遣はこれまでことごとく失敗に終わっていました。そこで、天照大御神が「今度はどの神を遣わせたら良いだろうか」とお尋ねになると、思金神と諸々の神たちは次のように提案しました。
「天の安の河の河上の天の岩屋にいる伊都之尾羽張神(伊邪那岐神が火之迦具土神を斬った時に用いた剣)を遣わすべきです。もしこの神でなければ、その神の子、建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)を遣わすべきです。天尾羽張神(伊都之尾羽張神の別名)は天の安の河の水を塞き止めて道を塞いでいるので、他の神はそこへ行くことができません。ですから、天迦久神を遣わして尋ねさせるべきです」
そこで、天迦久神を遣わせて天尾羽張神にお尋ねになると「かしこまりました。仕え奉ります。しかし、この役は我が子、建御雷神を遣わすべきでしょう」と答えたので、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を建御雷神に副えて遣わせました。
二柱の神は出雲国の伊耶佐之小浜(島根県出雲市大社町の稲佐浜)に降り立ち、建御雷神は十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き、逆さまに波の先に差し立て、その剣先にあぐらを組んで座りながら、大国主神に「我々は、天照大御神と高御産巣日神の命によって、次のことを問うために遣わされた。汝がうしはける(領有する)葦原中国は、我が御子の知らす(治める)国である、と任命なさった。汝の考えはいかがなものなのか」と尋ねました。
すると大国主神は「私は申し上げる訳にはいきません。我が子の八重言代主神(事代主神)が申し上げることでしょう。けれども、息子は鳥を狩りに、また魚を釣りに御大之岬(三保碕)まで行ったまま、帰ってきません」とお答えになりました。
そこで、天鳥船神を遣わせて、八重言代主神を呼んできて尋ねた時に、八重言代主神は父の大国主神に「かしこまりました。この国は、天つ神の御子に奉りましょう。」と言って、その船を踏んで傾け、天の逆手という特殊な柏手を打って船を青紫垣(あおふしがき)に変えて、その中に隠れました。
ここにきてにわかに国譲りが実現しそうになりましたが、まだもうひと悶着起こります。
建御名方神との力比べ
高天原から遣わされた建御雷神と天鳥船神の二柱の神は、大国主神に「おまえの子の事代主神はこのように言ったが、他に意見を申す子はいるか」と尋ねると、大国主神は「もう一人我が子、建御名方神(たけみなかたのかみ)がいます。これ以外に意見を申す者はいません」と申し上げました。
大国主神がこのようにお話しになっている間に、建御名方神が千人がかりで引くほどの大きな岩を手の先でもてあそびながらやってきました。建御名方神が「我が国にやってきて、こそこそと隠れて物を言うのは一体誰だ。ならば力比べをしてやろうじゃないか。私が先に手を取ってみせよう」と言いました。ところが、建御雷神がその手を取らせると、その手はたちまち氷の柱に変化し、さらに剣となって建御名方神を襲おうとしたのです。
今度は建御名方神が建御名方神の手をつかみにかかります。建御雷神はまるで若い葦を握りつぶすように、建御名方神の手を握りつぶし、たちどころに遠くへ投げ飛ばしてしまいました。
命の危険を感じた剣御名方神は逃げました。すると、建御雷神がこれを追いかけていき、科野国(しなののくに)の州羽の海(信濃国、長野県の諏訪湖)に追い詰め、殺そうとした時、建御名方神は「どうか私を殺さないで下さい。今後この地から他へは行かないことにします。また、父大国主神の命令に背くこともいたしませんし、八重言代主神の言うことにも背きません。この葦原中国は、天つ神御子の命ずるまま献上いたします」と言って頭を下げたのです。
建御雷神と天鳥船神の二柱の神はまた出雲国に帰ってきて、大国主神に「あなたの二人の子ども、事代主神と建御名方神は天つ神御子の考えに背かないと言っていたが、あなたの心はいかに」と聞きました。大国主神はここに次のように申し上げました。
「私の子ども、二柱の神の言うとおり、私も背くつもりはありません。この葦原中国は命令に従って差し上げることにいたしましょう。ただ、天つ神御子が天津日継(あまつひつぎ、皇位)をお受けになる、光り輝く宮殿のように、地盤に届くほどに宮柱を深く掘り立て、高天原に届くほどに千木を高く立てた、壮大な宮殿に私が住み、祭られることをお許し下さい。それが許されるのであれば、私は多くのまがり込んだ道を経ていく片隅の国(出雲国)に隠れて留まることにいたしましょう。また、それ以外の私の子どもたち、百八十神には、八重言代主神が、神々の先頭に立ち、神々を統率するならば、それに背く神はいません」
このように申し上げると、大国主神は、出雲国の海岸近くに立派な宮殿(出雲大社)をお作りになり、水戸神の孫の櫛八玉神が料理をして服属の徴としての天の御饗(みあえ)を天つ神に献上しました。
その時、祝いの言葉を申し上げた櫛八玉神は、鵜に姿を変え、海の底に潜り、底の赤土(はに)を口で銜(くわ)えてきてきて、たくさんの平らな皿を作り、海藻の茎を刈って板と杵を作って火を起こし、こう申し上げました。
「私が鑽り出した火は、高天原では、神産巣日御祖命(神産巣日神)の宮殿に煤が垂れ下がるまで焚き上がる火であり、また地の下では、岩盤を焚き固まらせる火です。白く長い縄を海に投げ入れて、海人が釣った口が大きく尾ひれの立派な鱸(すずき)を引き上げて、竹で編んだ器がたわむほど、たくさんの魚料理を献上します」
こうして、建御雷神は高天原に帰り、葦原中国を説得して平定した様子を、報告しました。これが『古事記』に記された出雲の国譲り神話です。
天孫降臨と日向三代
猿田毘古神の先導
こうして、天照大御神と高木神(たかぎのかみ、高御産巣日神)は太子(ひつぎのみこ、皇太子)である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほのみこと)に詔あそばされ「今、葦原中国を説得して平定したと報告があった。よって、命令したとおりに、葦原中国に降って、国を知らせ(治めよ)」と仰せになりました。
太子の天忍穂耳命は「私が降る準備をしている間に、子どもが生まれました。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと、邇邇芸命)といいます。この子を葦原中国に降ろすべきでしょう」と申し上げました。この御子は、高木神の娘、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)との間にお生まれになった子です。両神の御子は天火明命(あめのあかりのみこと)と、この邇邇芸命の二柱です。
このようなことで、天照大御神と高木神は、邇邇芸命に「この豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに、葦原中国)は汝が知らす国である国であると命ずる。よって、命令のとおりに天降りなさい」と仰せになりました。
邇邇芸命が高天原から地上に天降ろうと思し召すと、天之八衢(天と地の間にある方々への分かれ道)に、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がありました。
天照大御神と高木神は天宇受売神(あめのうずめのかみ)に「おまえはか弱い女であるが、神と向かい合った時に気後れしない神である。だから、お前が行って『我が御子が天降ろうとする道に、そのようにいるのは誰か』と尋ねなさい」と命ぜられました。天宇受売神は、天照大御神が天の岩屋にお隠れになった時に、艶やかな踊りを踊った神です。
そこで、天宇受売神がそのように尋ねると「私は国つ神、名は猿田毘古神です。ここにいる理由は、天つ神御子が天降りなさると聞き付けたので、先導させて頂こうと思い、ここへ参上し、待っていました」と答えました。
そこで、天児屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとたまのみこと)、天宇受売神(あめのうずめのかみ)、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)の併せて五伴緒(いつとものお)を、それぞれの職業に分けて従えさせて天降りました。五伴緒の、「伴」は世襲による同一職業の集団、また、「緒」はそれら集団の長を意味します。
この時、天照大御神は邇邇芸命に、岩屋から招き出した八尺勾玉と鏡、また草薙の剣、を授け、さらに思金神、天手力男神、天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を同伴させ「邇邇芸命は、この鏡を、私の御魂として、我が身を拝むように祭りなさい。次に思金神はこのことを引き受けて、神の政事をしなさい」と仰せになりました。
そして、邇邇芸命と思金神は、御鏡を五十鈴宮(伊勢の神宮の内宮、三重県伊勢市)にお祭りになりました。次に、登由宇気神(豊受気毘売神)は、外宮(とつみや)の渡相(伊勢の神宮の外宮、三重県伊勢市)に鎮座する神です。次に天石門別神は、またの名は櫛石窓神(くしいわまどのかみ)といい、またの名は、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といいます。この神は御門(宮殿の門)の神です。次に天手力男神は佐那那県(さなながた)に鎮座しています。「佐那那県」は地名で「佐那の県(あがた)」を指します。(三重県多気町に天手力男神を祭る佐那神社がある。)
ところで、邇邇芸命に伴って降ってきた天児屋命は、中臣連(なかとみのむらじ)の祖です。中臣連は大和朝廷の祭祀を行った氏族で、後に子孫とされる中臣鎌足が「藤原」の姓を与えられ、藤原氏となります。布刀玉命は、忌部首(いんべのおびと)らの祖です。忌部首も大和朝廷の祭祀を行った氏族で、特に祭祀にあたって物資を貢納する職業集団でした。天宇受売神は、猿女君(さるめのきみ)らの祖です。猿女君とは、朝廷の鎮魂祭儀で舞楽を演じる巫女を出す氏族のことです。また『古事記』編纂者の一人であ稗田阿礼はこの一族から分かれた稗田氏の出身です。伊斯許理度売命は、作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの祖です。作鏡連は鏡作りを業とした鏡作部を統率した氏族のことで、後に衰退し、文献に現れなくなります。玉祖命は、玉祖連(たまのおやのむらじ)らの祖です。玉祖連は玉作りを業とした玉作部を統率した氏族で、後に姓(かばね)「宿禰(すくね)」を与えられます。宿禰は真人(まひと)、朝臣(あそん)に次ぐ姓の一つです。この五柱の神は、いずれも天照大御神の天の岩屋隠れで登場した神です。
日の御子の降臨
さて、邇邇芸命は天之石位(あめのいわくら、高天原にある石の御座)をお離れになり、天の八重にたなびく雲を押し分けて、道をかき分けて、天の浮橋にうきじまり、そり立たせて(この部分は難解とされる)、竺紫の日向の高千穂の、くじふる嶺に天降りあそばされました。
この時、天忍日命と天津久米命の二柱の神は天之石靫(あめのいわゆき、矢を入れる武具)を背負い、頭椎(くぶつち)の太刀(柄の頭がコブのような形をした剣)を帯び、天之波士弓(あめのはじゆみ、ハゼノキで作った神聖な弓)を取り持ち、天之真鹿児矢(あめのまかこや、光り輝く神聖な矢)を手に挟み、邇邇芸命の前に立って仕え奉りました。さて、天忍日命は、大伴連(靫負部(ゆげいべ)や舎人部(とねりべ)などの軍事集団を統率する氏族)らの祖です。また、天津久米命は、久米直(くめのあたい、軍事集団の久米部を統率する氏族)らの祖です。
そこで、邇邇芸命は「ここは韓国(からくに、古代朝鮮)に向かい、笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)に道が通じていて、朝日がまっすぐに射す国、夕日の日が照る国である。だから、この地はとても良い地だ」と仰せになって、地の底にある岩盤に届くほど深く穴を掘って、太い宮の柱を立て、高天原に届くほど高く千木を立てて、そこにお住みになりました。
このようにして、天照大御神の孫が、葦原中国を治めるために、高天原から降っていらっしゃいました。これが「天孫降臨」です。
そして邇邇芸命は、天宇受売神に「私の前を先導して仕えた猿田毘古大神は、正体を訪ねたあなたが送ってさしあげなさい。また、その神の名を取って、自分の名としなさい」と仰せになりました。これにより、天宇受売神の子孫である猿女君らの女性は、猿田毘古の男神の名を受け継いで、猿女君と呼ばれることになったのです。
この猿田毘古神が阿耶訶(あざか、三重県松阪市大阿坂町・小阿坂町)にいる時、漁をしていると比良夫貝(ひらぶがい)にその手を挟まれて、海に沈み溺れてしまいました。これにより、その底に沈んだ時の名を「底どく御魂」といい、その海水の水粒がぶつぶつとあがった時の名を「つぶたつ御魂」といい、その海水の沫が割れた時の名を「あわさく御魂」といいます。
このようにして、天宇受売神が猿田毘古神を送り、戻ると、鰭の大きな魚から、鰭の小さな魚までことごとく集めて「おまえたちは天つ神御子に仕えるか」と尋ねました。すると、魚たちは皆「お仕えします」と申しましたが、その中で海鼠(なまこ)だけが」そのように答えませんでした。ここで天宇受売神は海鼠に「この口は答えぬ口か」と言って、紐のついた小刀で海鼠の口を裂いてしまいました。それで、今海鼠の口は裂けているのです。
したがって、御世ごとに島の速贄(はやにえ、志摩国から朝廷に献上する初物の産地)が献上されると、天皇(すめらみこと)は天宇受売神の子孫である猿女君らに賜うのです。
木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)
ある日、邇邇芸命は、笠沙之岬で麗しい美人に出会いました。邇邇芸命は一目で恋に落ちてしまいました。
邇邇芸命が「あなたは、誰の子か」とお尋ねになると「大山津見神の娘で、名は神阿多都比売、またの名は木花之佐久夜毘売と申します」と答え、続けて邇邇芸命が兄弟についてお尋ねになると「姉の石長比売がおります」と申し上げました。
ここで邇邇芸命が「私はあなたと結婚したいと思うが、どうか」とお尋ねになると、「私から申し上げることはできません。私の父、大山津見神が申し上げることでしょう」と答えました。
邇邇芸命は早速、その父の大山津見神の所に尋ねに使いを遣わせると、大山津見神は大いに喜び、木花之佐久夜毘売に、姉の石長比売を添えて、たくさんの嫁入り道具を持たせて、送り出しました。古代では、結婚は家同士の結び付きなので、一人の男性に姉妹が同時に嫁ぐ姉妹婚はよく行われていたのです。
ところが、容姿端麗な木花之佐久夜毘女に対し、姉の石長比売は大変醜かったのです。初めて会った邇邇芸命はその醜さに驚き恐れ、その日のうちに石長比売を実家にお返しになりました。そしてその晩、妹の木花之佐久夜毘売だけをお留になり、交わったのです。
姉妹を送り出した父親の大山津見神は、石長比売だけが送り返されてきたので、大きく恥、次のように言いました。
「私が二人の娘を並べて差し出したのは、石長比売を側において頂ければ、天つ神御子の命は、雪が降り、風が吹いたとしても、常に石のように変わらずに動きませぬように、また、木花之佐久夜毘売を側において頂ければ、木の花が咲くように栄えますようにと、願をかけて送り出したからです。このように石長比売を返させ、木花之佐久夜毘売ひとりを留めたのですから、今後、天つ神御子の命は、桜の花のようにもろくはかないものになるでしょう」
これ以降、今に至るまで、天皇命(すめらみこ、天皇)たちの御命は限りがあるものとなり、寿命が与えられて、短い命になったのです。
その後しばらくすると、木花之佐久夜毘売が邇邇芸命のもとにやってきて、「私は妊娠しました。今、産むにあたり、この天つ神の御子は、私事としてこっそり産むべきではありませんので、お伝えしました。」と申し上げました。
すると、邇邇芸命は「佐久夜毘売よ、たった一夜の交わりで妊娠したと言うのか。それはきっと私の子ではない。きっと国つ神の子であるに違いない」と疑って仰せになりました。木花之佐久夜毘売は次のように答えて申し上げました。
「私が産む子が、国つ神の子ならば、無事に出産することはないでしょう。しかし、もし天つ神の子であるならば、無事に出産することでしょう」
このように申し上げると、木花之佐久夜毘売は出入口のない八尋殿(高い神聖な建物)を作り、その中に入ると、内側から土で塗り塞ぎ、出産が近づくとその御殿に火を放ち、その燃え盛る火の中で子を生みました。木花之佐久夜毘売は体を張って、生まれた子が邇邇芸命の子であることを証明して見せたのです。
火の中で生まれた子は、火照命(ほでりのみこと)。これは隼人の阿多君(薩摩国阿多郡、鹿児島県南さつま市を本拠とした豪族)も祖です。次に火須勢理命(ほすせりのみこと)、次に火遠理命(ほおりのみこと)またの名は天津日高日子穂穂出見命(あまつひこひこほほでみのみこと)。併せて三柱です。
海幸彦と山幸彦
邇邇芸命と木花之佐久夜毘売の間に生れた子のうち、火照命は「海の獲物をとる男」という意味の海佐知毘古(うみさちびこ、海幸彦)として、海の大小の魚を獲っていらっしゃいました。また、火遠理命は「山の獲物をとる男」という意味の山佐知毘古(やまさちびこ、山幸彦)として、色々な獣を獲っていらっしゃいました。
火遠理命は、兄の火照命に「お互いに、獲物をとる道具を変えてみよう」と、三度お求めになったのですが、許されません。しかし、火遠理命があまりにしつこく求めるので、ついに二人は、少しだけ道具を交換して使ってみることになさいました。
ところが、火遠理命は釣り針を使って魚を釣ろうとするも、結局一匹の魚も釣ることができません。その上、兄の火照命が大切にしていた釣り針を、何と海に失くしてしまったのです。
すると、そこに火照命が現れ「山さちも、己がさちさち、海さちも、己がさちさち(自分の道具でなくては獲物は上手く獲れないという意味の呪文か。五七五七になっている。)そろそろ、お互いの道具を交換して元に戻そう」と仰せになったので、火遠理命は「あなたから借りた釣り針で一匹も魚を獲ることができず、ついに釣針を海に失くしてしまいました」と、過ちを正直に打ち明けて仰せになりました。
ところが、火照命はどうしても釣針を返すように、強く求めて攻め立てました。火遠理命はすっかりお困りになってしまいました。海で失くした釣針を探し出すのは簡単ではなさそうです。
火遠理命は、兄の許しを請うために、ご自分の十拳剣を打ち砕いて、五百本の釣針をお作りになり、償おうとなさいましたが、ついに火照命は受け取ろうとしませんでした。火遠理命は、さらに千本の釣針をお作りになって兄に差し出しましたが、やはり火照命は新しい釣針を受け取らず「元の釣針を返してくれ」の一点張りでした。火遠理命はどうすることもできず、ただ涙を浮かべて海辺に座り込んでいらっしゃいました。そこへ、潮の流れを司る神の塩椎神(しおつちのかみ)が現れ「どうして虚空津日高(そらつひこ、山幸彦)が泣いているのか」と尋ねると、火遠理命はこれまでのことをお話しになりました。
「私と兄とで道具を交換したのですが、私は兄から借りた釣針を失くしてしまいました。兄が釣針を返すよう求めるので、釣針をたくさん作って償おうとしましたが、受け取ってもらえず『元の釣針を返せ』と言うのです。それで私は泣いているのです」
それを聞いて気の毒に思った塩椎神は「私はあなたのために、力になって差し上げましょう」と言い、目が堅く詰まった竹籠の小舟を作り、火遠理命をその船に乗せて、次のように教えました。
「私がこの船を押し流すので、そのまま進みなさい。その先には良い潮路があるので、その道に乗って行けば、魚の鱗のように屋根をふいた宮殿、綿津見神(わたつみのかみ、海神)の宮殿があります。その神の御門に着いたならば、その傍らの井戸の上に桂の木があります。その木の上に座っていれば、海神の娘が何かと取り計らってくれることでしょう」
火遠理命が塩椎神に教えられたとおりにお進みになると、すべて言われたとおりになりました。そして、桂の木に登ってお座りになっていらっしゃると、海神の娘の豊玉毘売(とよたまびめ)の侍女(召使いの女性)が現れたのです。
侍女が玉器(たまもい、美しい器)で水を汲もうとした時に、井戸に人影が映っていたので、ふと見上げると、麗しい男神がいるのが分かり、一体どうしたのだろうと思いました。
火遠理命が侍女に水をお求めになると、侍女は玉器に水を汲み入れて差し出しました。すると火遠理命はその水をお飲みにならずに、自らの首飾りを解いて玉を口に含み、その玉器にくっついて、取れなくなりました。これにより、玉が侍女の主人の元に届けられ、自分が来たことを知らせるとができると考えたのでしょう。
侍女は仕方なく、首飾りの玉がくっついたままの玉器を豊玉毘売に差し出しました。これを見た豊玉毘売が「もしや、門の外に誰かいたのですか?」と問うと、侍女は次のようにいきさつを話しました。
「人がいました。井戸の上の桂の木の上にいたのです。とても麗しい男性でした。海神と同じくらい、いえそれ以上に貴い方です。その方が水を欲しいと仰せになったので、私は水を差し上げたのですが、水をお飲みにならずに、この玉を吐き入れたのです。すると玉器とくっついて離れなくなってしまいました。ですから、くっついたまま持って参りました」
火遠理命の目論見どおりになりました。この話を聞いた豊玉毘売は、どういうことかと思って門の所へ出て行きました。すると、火遠理命を見た豊玉毘売は、たちまち一目惚れしてしまい、二人はしばらく見つめ合っていたのです。
豊玉毘売が父の海神に「門の所に麗しい方がいらっしゃいました」と申し上げると、海神は自ら門の所へ出て行き、驚いた様子で「この方は天津日高の御子の虚空津日高ではないか」と言いました。海神は早々と火遠理命が天つ神の御子であることを見抜いたのです。
海神はすぐに戻り、海驢(あしか)の皮の敷物を幾重にも敷き、またその上に絹の敷物を幾重にも敷き、その上に火遠理命を座らせ、たくさんの品物を乗せた台を用意してご馳走し、ついに火遠理命と豊玉毘売を結婚させたのでした。火遠理命はそれから三年の間この国にお住みになります。
しかし、兄である火照命の釣針を探しに来たはずなのに、三年も海の宮殿に暮らして平気なのでしょうか。
塩盈珠と塩乾珠
海の宮殿で三年もお過ごしになった火遠理命は、ある日、大きなため息をおつきになりました。兄の火照命から借りた釣針を失くしてしまい、それを探すためにここにお出掛けになったことを思い出しました。
火遠理命がお嘆きになるお姿を拝した豊玉毘売は、父の海神に「三年お住みになって、これまでお嘆きになったことは一度もなかったのですが、今晩は大きく嘆いていらっしゃるようです。何かあったのでしょうか」と仰いました。
そこで父の海神は、娘の婿に次のように尋ねました。
「今朝わが娘が『三年お住みになって、これまでにお嘆きになることは一度も無かったのですが、今晩は大きく嘆いていらっしゃるようです』と言うのですが、何か心配事でもあるのでしょうか。また、どうしてここへいらっしゃったのか、その訳を教えて下さい」
すると、火遠理命は海神に、兄から借りた釣針を失くしてしまい、それを返せと攻め立てられている経緯をつぶさにお話しになりました。それを聞いた海神は、小さな魚から大きな魚まで海の魚という魚を呼び集めて、「もしや釣針を取った魚はいるか?」と尋ねました。
すると、魚たちは「この頃、鯛が喉に何か骨のようなものが刺さって、ものが食べられないと愁いています。ですから、これが取ったに違いないでしょう」と言ったのです。そこで鯛の喉を見てみると、確かに釣針が刺さっていました。海神は、早速取り出して洗い清め、火遠理命に釣針を差し出しました。
綿津見大神は火遠理命に次のように教えました。
「この釣針を、あなたのお兄さんに渡す時『この釣針は心のふさがる釣針、心のたけり狂う釣針、貧乏な釣針、愚かな釣針』と言って、後手で渡しなさい。そうして兄が高い所に乾いた田を作るなら、あなたは低い所に湿った田を作りなさい。もし、兄が低い所に田を作るなら、あなたは高い所に田を作りなさい。そうすれば、私は水を支配しているから、三年の間に、必ず兄は貧しくなるでしょう。もしそのようなことを恨んで兄が攻めてきたら、塩盈珠(しおみつたま、海を満潮にする呪力を持った玉)を出して溺れさせ、もし苦しんで助けを求めたならば、塩乾珠(しおふるたま、海を干潮にする呪力を持った玉)を出して生かし、悩ませ苦しめなさい」
こう言うと、海神は火遠理命に塩盈珠と塩乾珠の二つを授けました。そしてことごとく和邇を呼び集めて、問いました。
「今、天津日高の御子の虚空津日高が、上つ国にお出掛けになる。誰か、送って差し上げて帰るのに何日かかるか分かる者はいるか」
各々が身の丈に従って日数を申し上げる中で、一尋和邇が「私は一日で送って、帰ってくることができます」と言いました。そこでその一尋和邇に「ならばおまえが送って差し上げよ。海を渡る時、怖がらせてはならぬ」と告げ、火遠理命をその和邇の首に乗せて、送り出して差し上げました。
そしてその和邇は約束のとおり、一日のうちに送り奉りました。その和邇が帰ろうとした時、火遠理命は腰に着けていた紐小刀を解いて、和邇の首に着けて返しました。だから、その一尋和邇は、今は佐比持神(さひのもちのかみ)というのです。「佐比」とは鋭い刀のことです。
火遠理命は帰り着くと、つぶさに海神の教えのとおりにして、釣針を兄の火照命にお返しになりました。そして、その後、兄は徐々に貧しくなっていき、さらには荒々しい心を起こして攻めてきたのです。
攻めようとする時は、塩盈珠を出して溺れさせ、苦しんで助けを求めたら、塩乾珠を出して救い、このように悩ませ苦しめると、兄は頭を地面に着けて「私はこれから、あなた様の昼夜の守護人となって仕えます」と申し上げました。
かくして、火照命の子孫の隼人は、今に至るまでその溺れた時の仕草を絶えることがないように伝え、天皇に仕えています。
海がいつも満ちたり引いたりしているのはこのためなのかもしれません。
豊玉毘売の出産
ある日、海神の娘の豊玉毘売が訪ねてきて申し上げました。
「私はあなた様の子を妊娠したのですが、そろそろ産む時期がきました。天つ神の御子は、海原で生むべきではないと思い、やってきたのです」
そして、海辺の波打ち際に、鵜の羽根を葦に見立てて産屋をお作りになりました。ところが、その産屋をまだ葺き合えぬうちに、お腹の子が急に生まれそうになって、それをこらえきれずに、豊玉毘売は産屋にお入りになりました。そして生もうとする時に、夫の火遠理命に申し上げました。
「他の世界の者は、生む時になれば、必ず元の国の形になって生むものです。ですから、私は今、本来の姿になって生もうと思います。どうか私を見ないで下さい」
ところが、その言葉を奇妙に思った火遠理命は、その生もうとする様をひそかに覗き見てしまいました。すると、豊玉毘売は八尋和邇になり、這ってうねりくねりしていたので、それに驚いた火遠理命は逃げて退きました。
豊玉毘売は、覗かれたことを知ると、とても恥ずかしく思い、その御子を産み終えると「私は常に、海の道を通って行き来するつもりでいましたが、私の本来の姿を見られてしまったことは、とても恥ずかしいことです」と言い、海とこの国との境である海坂を塞いで海神の世界にお帰りになってしまいました。
このように、この御子は渚で鵜の葺草を葺き合える前にお生まれになったので、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎきたけうかやふきあえずのみこと、鵜葺草葺不合命(うかやふきあえずのみこと))と申し上げます。
しかしその後、豊玉毘売は覗かれたことを恨んだものの、恋しい心に耐えきれず、御子を養育するゆかりを頼りに、妹の玉依毘売(たまよりびめ)に託して、次の御歌を献上しました。
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
(赤い玉(琥珀)は紐さえも赤く光りますが、真白な玉(真珠)のようなあなた様のお姿はさらに貴くていらっしゃいます。)
そして、夫の火遠理命もこれに答えて次の御製をお詠みになりました。
沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世の悉に
(鴨の寄り付く遠い島で、我が共寝をした我が妻を、私は忘れることはないだろう。私の命が果てるまで。)
さて、火遠理命はその後、高千穂宮に五百八十年お住みになりました。そして、その御陵は高千穂の山の西にあります。
そして、鵜葺草葺不合命が、叔母に当たる玉依毘売を娶ってお生みになった子の名は五瀬命(いつせのみこと)。次に稲氷命(いなひのみこと)。次に御毛沼命(みけぬのみこと)。次に若御毛沼命(わかみけぬのみこと)。またの名は豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)、またの名は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)。
御毛沼命は、波の穂を超えて常世国に渡り、また稲氷命は、母の国である海原に入って行きました。
神倭伊波礼毘古命は、後に初代天皇の神武天皇になる人物です。ここから先は神倭伊波礼毘古命の物語に入ります。