初代 神武天皇
日向出立
神倭伊波礼毘古命と、同じく玉依毘古命を母とする兄の五瀬命の二柱の神は、高千穂宮で相談あそばされました。弟の神倭伊波礼毘古命が「一体どこに住めば、平和に天下を治めることができるのでしょうか。東に行ってみませんか」と申し上げると、日向(九州南部)をお発ちになり、筑紫(九州北部)へ出立なさいました。
そして、豊国の宇佐(大分県宇佐市)にお着きになった時、そこに住む土着の人で、宇佐都比古、宇佐都比売の二人が、足一騰宮(あしのひとつあがりのみや、どのような構造か不明。一本足の宮という説もある)を作り、服属の徴として大御饗(おおみあえ)を献上して、神倭伊波礼毘古命と五瀬命をもてなしました。そして、二柱はその地からお移りになり、次は竺紫の岡田宮(福岡県芦屋町の遠賀川河口付近か)に一年お留まりになりました。その後、安岐国の多祁理宮(広島県府中市付近か)に七年、また、吉備(岡山県と広島県東部)の高島宮(たかしまのみや、所在未定、児島半島に「高島」の地名がある)に八年お留まりになりました。
その地をお発ちになって、さらに東に向かおうと思し召したところ、速吸門(潮流が速い海峡のこと、明石海峡か)で、亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人とお会いになりました。
神倭伊波礼毘古命は、その人を近くにお呼びになり「あなたは誰か」とお尋ねになると「私は国つ神だ」と答え、また「あなたは海の道を知っているか」とお尋ねになると「よく知っている」と答え、そして「私に従い、仕える気はないか」とお尋ねになると「仕え奉りましょう」と答えて申し上げました。そこで棹をお渡しになって、神倭伊波礼毘古命と五瀬命の御船に引き入れ、槁根都日子(さおねつひこ)という名前を賜りました。これは倭国造(奈良盆地東部の豪族)らの祖です。
そして、その地よりさらに東に進み、浪速之渡(なみはやのわたり、大阪湾の沿岸部)を経て青雲の白肩津(しらかたのつ、所在未定)で御船をお泊めになりました。この時、登美能那賀須泥毘古(とみのながすぬびこ、登美毘古)が軍を興して待ち構えていたので、戦いになりました。神倭伊波礼毘古命たちは御船に備えてあった楯をお取りになり、お降りになりました。そこで、その地を名付けて「楯津」というのです。今では日下の蓼津(くさかのたでつ)と呼んでいる所です。
五瀬命の戦死
さて、登美毘古と戦った時、兄の五瀬命は、その手に敵の矢を負ってしまいました。そこで五瀬命は「我々の日の神の御子なのに、日に向かって戦ったことが良くなかったのだ。そのため、賎しい奴に痛手を負わされてしまった。これからは、回り込んで、背に日を負って敵を討とう」と仰せになり、そして南の方より回り込むように軍をお進めになると、血沼海(ちぬのうみ、大阪府南部に面した海)に至って、傷付いた手の血をお洗いになりました。それゆえに、「血沼海」というのです。
そこからさらに回り込み、紀国(きのくに、紀伊国、和歌山県・三重県南部)の男之水門(おのみなと、大阪府泉南市男里のあたりか)にお着きになると、五瀬命は「賎しき奴に手傷を負わされて死ぬことになるとは…」と雄叫びをあげ、その傷がもとで死んでしまいました。そこで、その水門を名付けて「男水門(おのみなと)」というのです。五瀬命の御陵は紀国に甕山(和歌山県和田)にあります。
兄を亡くした神倭伊波礼毘古命は、それでもその地よりさらに回り込んでお進みになりました。一行が熊野村(和歌山県新宮市付近か)に着いた時、大熊が見えたり隠れたりして、そのうちいなくなったのですが、その時からというもの、神倭伊波礼毘古命は急に体調をお崩しになり、床にお臥せになりました。それだけではありません。従う兵士たちもみな具合を悪くして、寝込んでしまいました。
ところがこの時、熊野の高倉下(たかくらじ)がひと振りの太刀を持って、天つ神御子(神倭伊波礼毘古命)が臥していらっしゃる所に行って、その太刀を奉ると、天つ神御子はようやく起き上がり「長い間寝てしまった」と仰せになりました。そしてその太刀をお受け取りになると、何もなさらないのに、熊野の山の荒ぶる神は自ら切り倒されてしまい、臥して寝込んでいた兵士たちは、ことごとく目を覚ましました。
そのようなわけで、天つ神御子が、その太刀を得たいきさつをお尋ねになったところ、高倉下は次のように申し上げました。
「私は不思議な夢を見ました。天照大御神と高木神(高御産巣日神)の二柱の神は、建御雷神(たけみかづちのかみ)をお呼びになってこう仰せになったのです。『葦原中国(地上世界、特に日本を指す)はとても騒がしい様子である。私の子どもたちも苦しんでいるようだ。その葦原中国は、そもそもおまえが説得して平定した国であるから、建御雷神、あなたが降っていきなさい』。すると、建御雷神は答えて言いました。『私が地上に降らなくとも、その国を平らげた太刀があります。ですからその太刀を降ろすべきでしょう。この太刀を降す方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開け、そこから落とし入れるのが良いでしょう』。こう言うと、今度は私に『朝に縁起よく目覚めたら、あなたが取り持って天つ神御子に献上しなさい』と仰せになりました。私は夢の教えのままに、朝になって自分の倉を見てみると、本当に太刀があったのです。それでこの太刀を差し上げました」
高倉下は、この太刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)といい、またの名は甕布都神(かみふつのかみ)、またの名は布都御魂(ふつのみたま)と言います。この刀は石上神社(奈良県天理市の石上神社)に鎮座しています。
天つ神御子の戦いはこれから終盤戦に入っていきます。
八咫烏の導き
高倉下が献上したことで天つ神御子(神倭伊波礼毘古命)は一難を逃れました。すると、高木大神(高御産巣日神)は命令して仰せになりました。
「天つ神御子よ、ここから奥の方にすぐに御出ましになってはいけません。荒ぶる神がとてもたくさんいます。今、天より八咫烏(やたからす)を遣わします。そうすれば、その八咫烏が導くはずですから、その後をお進みになるとよいでしょう」
そこで天つ神御子は、その教えのとおりに、八咫烏の後についてお進みになると、吉野河の河尻(下流)にお着きになりました。その時、筌(うえ、竹製の魚を捕らえる道具)を作って魚を獲っている人がいました。天つ神御子が「あなたは誰だ」とお尋ねになると「私は国つ神。名は贄持之子(にえもつのこ)といいます」と申し上げました。これは阿陀の鵜養(うかい、阿陀は奈良県五條市。阿陀の鵜養は、鵜を飼って魚を獲り朝廷に納めた集団)の祖です。
そこからさらにお進みになると、尾の生えた人が井戸から出て来ました。その井戸は光っていました。そこで「あなたは誰だ」とお尋ねになると「私は国つ神。名は井氷鹿(いひか)といいます」と申し上げました。これは吉野首(よしのおびと、大和国吉野郡、奈良県吉野郡の氏族)らの祖です。「尾の生えた人」というのは、吉野地方の木こりが尾の生えたように見える毛皮を付ける習慣があり、それを「尾の生えた人」と表現したのでしょう。
そしてその山に入ると、また尾が生えた人に出会いました。この人は岩を押し分けて出てきました。そこで「あなたは誰だ」とお尋ねになると「私は国つ神。名は石押分之子(いわおしわくのこ)といいます。今、天つ神御子がいらっしゃると聞いたので、出迎えるために参じました」と申し上げました。これは吉野の国巣(くず)の祖です。ところで、吉野の国巣は吉野の土着の氏族で、大嘗祭などに服属儀礼として歌舞を奏で物産を献上してきました。(現在、奈良県吉野町に国栖の地名が残る)。
その地より蹈み穿ち越え、宇陀の地(吉野から奈良盆地に至る途中、奈良県宇陀市)にお進みになりました。「蹈み穿ち越え」とは穴が開くほど強く踏み越えたという意味です。そこでこの地のことを宇陀の穿(宇陀市菟田野宇賀志)といいます。
このような土着の氏族が名乗る一連の逸話は、その地の首長たちが次々に天つ神御子に服従したことを示すものだと考えられています。
宇陀の兄宇迦斯と弟宇迦斯
宇陀には兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)の二人がいました。そこで、天つ神御子(神倭伊波礼毘古命)はまず八咫烏を遣わせて、二人にこのようにお尋ねになりました。
「今、天つ神御子がおいでになっていらっしゃる。あなたたちも仕え奉らないか」
ところが、兄宇迦斯が、鳴鏑(音が鳴る鏑矢)で八咫烏を射って追い返しました。その鳴鏑の落ちた所を、訶夫羅前(かぶらさき、所在未詳)というのです。
二人の兄弟は、天つ神御子を待ち受けて撃とうと、兵を集めました。ところが十分な兵士を集めることができず、「仕え奉ります」と偽って伝え、その間に大きな御殿を作り、御殿の中に押機(おし、踏むと打たれて圧死するように仕掛けた罠)を作って待ちました。
すると、弟宇迦斯は一人で天つ神御子を出迎え、跪いて「私の兄の兄宇迦斯は天つ神御子の使いを射返し、待ち受けて攻めるために軍を集めようとしましたが、思うように集まらず、御殿を作り、その中に押機を仕掛けています。ですから出迎えて兄の企てを白状しました」と申し上げました。
そこで大伴連らの祖の道臣命(みちおみのみこと)と、久米直らの祖の大久米命(おおくめのみこと)の二人が、兄宇迦斯を呼び「自分がお仕えするために作った御殿の中には、おまえがまず入り、どのようにお仕え奉ろうとするのかを明らかにしろ」と罵って言い、太刀の柄を握り、矛を向けて弓に矢をつがえて、兄宇迦斯を御殿の中に追い入れました。すると兄宇迦斯は、自分が作った押機に打たれて死にました。
そこで道臣命と大久米命たちは、兄宇迦斯の遺体を外に引きずり出し、切り刻みました。そこでその地を宇陀の血原(ちはら、所在未詳、現在、宇陀市に血原の地名が残る)というのです。
弟宇迦斯が服属の徴として献上した大饗(おおあえ)は、道臣命と大久米命の兵士たちに与えられました。この時に御子は、次の御製をお詠みになりました。
宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る こなみが 肴乞はさば 立ちそばの 実の無けくを こきしひゑね うはなりが 肴乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね ええ しやごしや こはいのごふそ ああ しやごしや こは嘲咲ふぞ
(宇陀の高い城に鴫の罠を張る。待っても鴫はかからず、思いもよらない美しい立派な鯨がかかった。古女房がおかずを求めたら、木の実の少ないのを、少し削ぎ取ってやれ。かわいい妾がおかずを求めたら、木の実の多いのを、たくさん削ぎ取ってやれ。エー、シヤゴシヤ(囃子ことば、「こいつめ」の意))
さて、その弟宇迦斯は、宇陀水取(朝廷の飲料水を扱った部民)らの祖に当たります。
久米歌
戦に勝利した天つ神御子(神倭伊波礼毘古命)は、その地よりさらにお進みになり、忍坂(おさか、奈良県桜井市)にある、岩をくりぬいて作った大きな家にお着きになりましたが、尾の生えた土雲(つちぐも、大和朝廷に従わなかった土着民を蔑んでいうことば)の八十建(やそたける、多くの勇猛な者たちの意)がその岩穴で待ち構えて唸っていました。
そこで、天つ神御子の命によって、八十建にご馳走が届けられました。そして八十建を佩(は)かせて、その膳夫たちに「歌が聞こえたら、すぐに皆で切りかかれ」と言っておきました。そして、その土雲を打とうとして次の御製をお詠みになりました。
忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子らが 頭椎 石椎もち 今撃たば良らし
(忍坂の大きな岩穴にたくさん集まっている。どんなにたくさん集まっていても、いかめしく強い久米の兵士が、コブのついた剣や石の柄の剣を持って、今こそ撃つのに良い時だ)
このように歌い、刀を抜いて、もろともに土雲を打ち殺しました。また、後に登美毘古(とみびこ、登美能那賀須泥毘古)を打とうとした時にも、天つ神御子は次の御製をお詠みになりました。
みつみつし 久米の子ら 粟生には 臭韮一本 そ根がもと そ根芽がもと 撃ちてし止まむ
(いかめしく強い久米の兵士たちの粟畑には、臭い韮が一本生えている。その臭い韮の根の、韮の根と芽をつないで一緒に引き抜くように、敵を数珠つなぎに討ち果たさずおくものか)
また続けて次の御製をお詠みになりました。
みつみつし 久米の子らが 垣下に 植ゑし椒(はじかみ) 口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ
(いかめしく強い久米の兵士たちが垣根のわきに植えた山椒の、口がひりひりする、その痛みを我々は忘れない。敵を討ち果たさずにおくものか)
さらに続けて次の御製をお詠みになりました。
神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ
(神の風が吹く伊勢の海の、大きな石に這い廻っている小さな巻き貝の、その這い廻って群がるように、敵を討ち果たさずにおくものか)
また、兄師木(えしき)と弟師木(おとしき)を撃った時、続く戦のために兵士が疲れきってしまいました。そこで次の御製をお詠みになりました。
楯並めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ぬ
(楯を並べて伊那佐の山の木々の間を、射って進み守りながら戦ったので、我々は腹が減った。島つ鳥の鵜飼の者よ 今すぐ助けに来てくれ。)
ところで「師木」は大和の地名です。兄師木と弟師木は師木の豪族と思われます。この兄弟は『日本書紀』には兄磯城・弟城として登場し、兄は神日本磐余彦(神倭伊波礼毘古命)に反抗して滅ぼされ、弟は帰順して磯城県主(しきのあがたぬし)となったと記されています。
兄師木と弟師木を撃つと、そこへ邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が現れて、天つ神御子に「天つ神の御子が天降りされると聞いたので、追って降りて来ました」と申し上げ、天津瑞(あまつしるし、天つ神の子孫であることの印)を献上して天つ神御子に仕えることになりました。邇芸速日命は天つ神御子(神倭伊波礼毘古命)よりも先に大和の地に入り、登美毘古を従えていたのです。
そして、邇芸速日命が登美毘古の妹の登美夜毘売(とみやびめ)を妻にして生んだ子は宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)で、物部連、穂積臣、婇臣の祖にあたります。
上記の六首の歌を久米歌といいます。
さて、天つ神御子はこのように荒ぶる神々を説得して平定あそばされ、従わない人たちを追い払って、畝火の白檮原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍山の東南の地)で天下を治めになりました。これにより、天つ神御子は長い東征を終えて初代の天皇に即位あそばされました。天皇の誕生です。天つ神御子の神倭伊波礼毘古命は後に「神武天皇」と呼ばれるようになります。
皇后選定
天つ神御子(神倭伊波礼毘古命)は、御即位前に九州の日向(九州南部)の地においでになった時、すでに結婚あそばされ、二人の御子がありました。その妃は、阿多(鹿児島県南さつま市)の小椅君(おばしのきみ、阿多隼人の一族)の妹の、阿比良比売(あひらひめ)です。そして、二人の間に生れた御子は、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)といいます。
しかし、御即位後、さらに大后(おおきさき、皇后)とすべき美人をお求めになっていると、大久米命が次のように申し上げました。
「このあたりに『神の御子』というべき媛女(おとめ)がいます。というのも、三島湟咋(みしまのみぞくい、摂津国三島郡の豪族か。大阪府茨木市に溝咋神社がある。)の娘の勢夜陀多良比売(せやだらひめ)は、その姿かたちはとても麗しく、三輪山の大物主神(大国主神に自分を祭るように求めた「御諸山の上に坐す神」)が一目見てすっかり気に入ってしまいました。その美人が大便をする時、大物主神は赤く塗った矢に化けて、美人が大便をするその厠の溝へ流れ下って、その美人の陰(ほと、性器)を突きました。するとその美人は驚いて立ち上がって走り、あわてふためきました。すぐにその矢を持ってきて床に置くと、矢はたちまち麗しき壮夫(おとこ)になりました。そして、大国主神がその美人を娶って生んだ子の名は、富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらすすきひめのみこと)といい、またの名は比売多多良伊須気余理比売(伊須気余理比売)といいます。このようなわけで『神の御子』というのです」
ところで、またの名があるのは「富登(ほと)」が女性の陰部を示す言葉であるため、これを嫌い、後に改めたものです。
さて、ある時七人の媛女が高佐士野(奈良県桜井市三輪の北の台地か)で遊んでいました。その中には伊須気余理比売もいました。そこで大久米命(兄宇迦斯を倒した)がその伊須気余理比売を見ると、次の歌を詠んで天皇に申し上げました。
倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰をし枕かむ
(大和の高佐士野を行く七人の乙女たち。その誰を妻としましょうか)
伊須気理比売は、その媛女たちの中でも一番前に立っていました。そこで天皇はその媛女たちをご覧になり、心の中で伊須気余理比売が先頭に立っているのをお知りになり、答えて次の御製をお詠みになりました。
かつがつも いや前立てる 兄をし枕かむ
(まあ言うならば、先頭に立っている年上の子を抱いて寝よう。)
ここで大久米命が天皇の命令によって、そのお言葉を伊須気余理比売に伝えると、伊須気余理比売は大久米命が目じりに入れ墨をしていて、目が裂けているように見えたので、それを奇妙に思って次の歌を詠みました。
あめ つつ ちどり ましとと など黥(さ)ける利目
(アマドリ・セキレイ・チドリ・ホオジロのように、どうして目尻に入れ墨をしているのですか。)
すると、大久米命は、これに答えて次の歌を詠みました。
媛女に 直に逢はむと 我が裂ける利目
(乙女にまっすぐに逢おうと思って、私は目を鋭く見開いているのです。)
これは一種の謎かけです。そして、伊須気余理比売は「仕え奉ります」と答えました。
伊須気余理比売の家は狭井河(三輪山近くの大神神社摂社の狭井神社の傍を流れる川)の上流にありました。天皇は伊須気余理比売の所に行幸(天皇がお出かけになること)あそばされ、一夜を寝てお過ごしになりました。ところで、その川を「狭井河」というのは、その川辺に山百合がたくさん生えているので、その山百合の名をとって狭井河と名付けたのです。山百合の元の名は「サイ」といいます。
後に伊須気余理比売が宮中に参内なさった時、天皇は次の御製をお詠みになりました。
葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し
(葦原の荒れた小屋に、菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、我々は二人で寝たことよ。)
こうして生まれた御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命(後の第二代綏靖天皇)の三柱です。
長男の陰謀
神武天皇が崩(かむあが)りました。(天皇が亡くなることを、「崩御」もしくは「崩る」という。)すると、神武天皇が日向においでになった時に生れた、長男の多芸志美美命が、神武天皇の后である伊須気余理比売を妻にしました。多芸志美美命は伊須気余理比売がお生みになった三皇子らの腹違いの兄です。
息子が母親と結婚するのは、現在では考えられませんが、当時は先帝の后を妻にすることは、王位の継承者であることを示す意味があったのです。伊須気余理比売は神武天皇が大和の地においでになってから娶った女性なので、多芸志美美命の生母ではなく、義母に当たります。
しかし、多芸志美美命は三人の弟を殺そうとして陰謀をめぐらせていました。すると、伊須気余理比売は憂い苦しみ、子どもたちと陰謀のことを伝えるために、次の御歌をお詠みになりました。
狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす
(狭井河から雲が立ちのぼり、畝火山の木の葉が鳴り騒いでいる。風が吹こうとしている。)
そして、続けて次の御歌をお詠みになりました。
畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉騒げる
(畝火山は昼間は雲といっしょに止まっているが、夕方になると風が吹こうとして、木の葉がざわめいている。)
すると、その御子たちは兄の陰謀を知って、すぐに多芸志美美命を殺そうとしましたがその時、一番下の弟の神沼河耳命が、すぐ上の兄、神八井耳命に次のように言いました。
「あなたさま、兄上が武器を持って、多芸志美美命を殺して下さい」
このため、神八井耳命が武器を持って殺そうとしましたが、手足がぶるぶると震えて、殺すことができません。そこで、弟の神沼河耳命が、その兄が持っていた武器を受け取って、多芸志美美命を殺しました。そのようなわけで、その名前を称えて「建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)」と申し上げます。「建」には「勇猛な」の意味があります。
ここで、兄の神八井耳命は、弟の建沼河耳命に皇位を譲り「私は仇を殺すことができなかった。あなたは見事に殺した。したがって、私は兄であるけれども、天皇とはならず、これをもってあなたが天皇となり、天の下を治めなさい。私はあなたを助け、祭りを行う人として仕えましょう」と言いました。ゆえに、神沼河耳命が天皇に即位あそばされ天の下を治めになりました。第二代綏靖天皇です。
一番上の兄の日子八井命は、茨田連(うまらたのむらじ)、手島連(てしまのむらじ)の祖です。神八井耳命は、意富臣(おおのおみ)、小子部連(ちいさこべのむらじ)、坂合部連(さかいべのむらじ)、火君(ひのきみ)、大分君(おおきだのきみ)、阿蘇君(あそのきみ)、筑紫三家連(つくしのみやけのむらじ)、雀部臣(きざきべのおみ)、雀部造(きざきべのみやっこ)、小長谷造(おはつせのみやっこ)、都祁直(つけのあたい)、伊余国造(いよのくにのみやっこ)、科野国造(しなのくにのみやっこ)、道奥石城国造(みちのくのいわきのくにのみやっこ)、常道仲国造(ひたちのなかのくにのみやっこ)、長狭国造(はがさのくにのみやっこ)、伊勢船木直(いせのふなきのあたい)、尾張丹羽臣(おわりのにわのおみ)、島田臣(しまだのおみ)らの祖です。
『古事記』には、編纂当時の延臣だった多くの氏族が、天皇と血のつながりがある家として、このように記されています。
神倭伊波礼毘古天皇(神武天皇)の御年は百三十七歳(ももちあまりみそちあまりななつ)。御陵は畝火山の北方の白檮尾(かしのお)の辺りにあります。
第二代 綏靖天皇 ~ 第九代 開化天皇
第二代 綏靖天皇
神武天皇崩御の後、多芸志美美命を倒した神沼河耳命が即位あそばされました。第二代綏靖天皇(すいぜい)です。
綏靖天皇から開化(かいか)天皇までの八代の天皇については、これまでと異なり、誰と結婚して誰を生んだかという記述が続くため、そのまま文章にするととても退屈な文章になってしまうので、『古事記』に書かれたことは、すべて一覧の形式にまとめました。第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは、熟読しなくてもその後の物語は理解できます。
御名 神沼河耳命(かみぬなかわみみのみこと)神武天皇第三皇子、母:伊須気余理比売(いすけよりひめ)
宮の所在地 葛城(奈良県北西部金剛山地東麓一帯)の高岡宮(奈良県御所市森脇か)
后妃 河俣毘売(かわまたびめ)、師木県主の祖
皇子女 師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)、後の第三代安寧天皇、母:河俣毘売
崩御の年齢 45歳
御陵 衝田岡(つきたのおか)、所在未詳、比定地:奈良県橿原市四条町
陵名・古墳 桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)、塚山古墳
第三代 安寧天皇
綏靖天皇崩御の後、第一皇子の師木津日子玉手見命が即位あそばされました。第三代安寧天皇です。
御名 師木津日子玉手見命(綏靖天皇第一皇子)、母:河俣毘売
宮の所在地 片塩の浮穴宮(かたしおのうきあなのみや)、所在未詳、奈良県大和高田市片塩町辺りか
后妃 阿久斗比売(あくとひめ)、河俣毘売の兄の師木県主波延(しきのあがたぬしはえ)の娘
皇子女 常根津日子伊呂沼命(とこねつひこいろねのみこと)、母:阿久斗比売
大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと)、後の第四代懿徳天皇、母:阿久斗比売
師木津日子命(しきつひこのみこと)、母:阿久斗比売
崩御の年齢 49歳
御陵 畝火山の美富登、比定地:奈良県橿原市吉田町
陵名・古墳 畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほとのいのうえのみささぎ)
その他の記述 第三皇子の師木津日子命は二柱の王を儲けました。一人は孫(うまご)といい、伊賀の須知の稲置、三野の稲置の祖です。もう一人は和地都美命といい、淡道の御井宮にいました。また、和知都美命には二柱の娘がいました。姉は蠅伊呂泥(はえいろね、後の第七代孝霊天皇の妃となる)、またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)、妹は蠅伊呂杼(はえいろど、後に第七代孝霊天皇の妃となる)といいます。
第四代 懿徳天皇
安寧天皇崩御の後、第二皇子の大倭日子鉏友命が即位あそばされました。第四代懿徳(いとく)天皇です。
御名 大倭日子鉏友命(安寧天皇第二皇子)、母:阿久斗比売
宮の所在地 軽(かる、奈良県橿原市大軽町)の境岡宮(さかいおかのみや、所在未詳)
后妃 賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと、飯日比売命、師木県主の祖)
皇子女 御真津日子訶恵志沼命(みまつひこかえしねのみこと、後の第五代孝昭天皇)、母:賦登麻和訶比売命
多芸志比古命(たぎしひこのみこと)、母:賦登麻和訶比売命
崩御の年齢 45歳
御陵 畝傍山の真名子谷(所在不明、奈良県橿原市西池尻町)
陵名・古墳 畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)
その他の記述 多芸志比古命は、血沼之別、多遅麻の竹別、葦井の稲置の祖です。
第五代 孝昭天皇
懿徳天皇崩御の後、第一皇子の御真津日子訶恵志沼命が即位あそばされました。第五代孝昭天皇です。
御名 御真津日子訶恵志沼命(懿徳天皇第一皇子)、母:賦登麻和訶比売命
宮の所在地 葛城の掖上宮(わきがみのみや、奈良県御所市東北部)
后妃 余曾多本毘売命(よそたほびめのみこと、尾張連の祖である奥津余曾(おきつよそ)の妹)
皇子女 天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)、母:余曾多本毘売命
大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと、後の第六代孝安天皇)、母:余曾多本毘売命
崩御の年齢 93歳
御陵 掖上の博多山(比定地:奈良県御所市三室)
陵名・古墳 掖上博多山上陵(わきのかみはかたのやまのうえのみささぎ)
その他の記述 天押帯日子命は、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、知多臣、牟耶臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壱師君、近淡海国造の祖です。
第六代 孝安天皇
孝昭天皇崩御の後、第二皇子の大倭帯日子国押人命が即位あそばされました。第六代孝安天皇です。
御名 大倭帯日子国押人命(孝昭天皇第二皇子)、母:余曾多本毘売命
宮の所在地 葛城の室の秋津島宮(奈良県御所市室の宮山の東麓)
后妃 忍鹿比売命(おしかひめのみこと、天押帯日子命の娘。天皇の姪に当たる)
皇子女 大吉備諸進命(おおきびもろすすむのみこと)、母:忍鹿比売命
大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと、後の第七代孝霊天皇)、母:忍鹿比売命
崩御の年齢 123歳
御陵 玉手岡(比定地:奈良県御所市玉手)
陵名・古墳 玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)
第七代 孝霊天皇
孝安天皇崩御の後、第二皇子の大倭根子日子賦斗邇命が即位あそばされました。第七代孝霊天皇です。
御名 大倭根子日子賦斗邇命(孝安天皇第二皇子)、母:忍鹿比売命
宮の所在地 黒田(奈良県田原本町黒田)の廬戸宮(いおとのみや)
后妃 細比売命(ほそひめみこと、十市県主の祖である大目の娘)
春日の千千速真若比売(かすがのちちはやまわかひめ)
意富夜麻登久邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと、蠅伊呂泥。和知都美命の娘)
蠅伊呂杼(はえいろど、意富夜麻登久邇阿礼比売命の妹)
皇子女 大倭根子日子国玖琉名(おおやまとねこひこくにくるのみこと、後の第八代孝元天皇)母:細比売命
千千速比売命(ちちはやひめのみこと)、母:春日の千千速真若比売
夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)、母:意富夜麻登久邇阿礼比売命
日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)、母:意富夜麻登久邇阿礼比売命
比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりびこのみこと、別名・大吉備津日子命)、母:意富夜麻登久邇阿礼比売命
倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)、母:意富夜麻登久邇阿礼比売命
日子窹間命(ひこさめまのみこと)、母:蠅伊呂杼
若日子建吉備津日子命(わかこたけきびつひこのみこと)、母:蠅伊呂杼
崩御の年齢 106歳
御陵 片岡(奈良県王寺町・上牧町・香芝市辺りの丘陵地)の馬坂、比定地:奈良県王寺町本町
陵名・古墳 片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)
その他の記述 大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命の二柱は、針間(播磨国、兵庫県南西部)の氷河之前(氷川は現在の加古川。流域の氷丘が岬のようになっている)に清浄な壺を置いて神を祭り、針間を起点として吉備国(岡山県・広島県東部)を説得して平定しました。大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖です。
次に若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖です。次に日子窹間命は針間の牛鹿臣の祖です。次に日子刺肩別命は高志(こし)の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿の海直の祖です。
第八代 孝元天皇
孝霊天皇の崩御の後、皇子の大倭根子日子国玖琉名が即位あそばされました。第八代孝元天皇です。
御名 大倭根子日子国玖琉名(第七代孝霊天皇皇子)、母:細比売命
宮の所在地 軽(奈良県橿原市大軽町)の境原宮
后妃 内色許売命(穂積臣らの祖である内色許男命の妹)
伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと、内色許男命の娘)
波邇夜須毘売(はにやすびめ、河内の青玉の娘)
皇子女 大毘古命(おおびこのみこと))、母:内色許売命
少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)、母:内色許売命
若倭根子日子大毘毘名(わかやまとねこひこおおびびのみこと、後の第九代開化天皇)、母:内色許売命
比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)、母:伊迦賀色許売命
建波邇夜須毘古命(たけはやにやすびこのみこと)、母:波邇夜須毘売
崩御の年齢 57歳
御陵 剣池(奈良県橿原市石川町の石川池)の中岡、比定地:奈良県橿原市石川町
陵名・古墳 剣池嶋上陵(つるぎぼいけのしまのえのみささぎ)、中山塚一号・二号・三号墳
その他の記述 大毘古命の子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)は安倍臣らの祖です。同じく大毘古命の子の比古伊那許士別命(ひこいなこじわけのみこと)は膳臣の祖です。
比古布都押之信命が尾張連のらの祖である意富那毘(おおなび)の妹、葛城之高千那毘売(かずらきのたかちなびめ)を娶って生んだ子は山城内臣の祖である味師内宿禰。また、木国造の祖である宇豆比古の妹、山下影日売(やましたかげひめ)を娶って生んだ子は建内宿禰。
建内宿禰の子は、次に挙げる男七人、女二人、計九人です。波多八代宿禰は波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖です。許勢小柄宿禰は許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖です。蘇我石河宿禰は蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖です。平群都久宿禰は平群臣、佐和良臣、馬御樴連らの祖です。木角宿禰は木臣、都奴臣、坂本臣の祖です。次に久米能摩伊刀比売。次に怒能伊呂比売。次に葛城長江曾都毘古は玉手臣、的臣、生江臣、阿芸那臣らの祖です。また若子宿禰は江野財臣の祖です。
第九代 開化天皇
孝元天皇崩御の後、第三皇子である若倭根子日子大毘毘名が即位あそばされました。第九代開化天皇です。
御名 若倭根子日子大毘毘名(第八代孝元天皇第三皇子)、母:内色許売命
宮の所在地 春日(奈良県東部)の伊耶河宮(奈良県本子守町の率川神社付近か)
后妃 竹野比売(たかのひめ、旦波[京都府と兵庫県の一部]の大県主、由碁理の娘)
伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと、開化天皇の父に当たる孝元天皇の妃。天皇の庶母)
意祁都比売命(丸邇臣の祖である日子国意祁都命の妹。丸邇臣は奈良県天理市和邇町辺りを本拠とし、奈良盆地東部一帯に勢力をもった豪族で、後に奈良市春日野町付近に移住して春日氏を称したともいう)
鸇比売(わしひめ、葛城の垂見宿禰の娘)
皇子女 比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)、母:竹野比売
御真木入日子印恵命(みまきいりびこいにえのみこと、後の第十代崇神天皇)、母:伊迦賀色許売命
御真津比売命(みまつひめのみこと)、母:伊迦賀色許売命
日子坐王(ひこいますのみこ)、母:意祁都比売命
建豊波豆羅和気王(たけはずらわけのみこ)、母:鸇比売
崩御の年齢 63歳
御陵 伊耶河の坂の上(比定地:奈良県奈良市油阪町)
陵名・古墳 春日率川坂上陵、念仏寺山古墳
その他の記述 比古由牟須美王の子は大箇木垂根王と讃岐垂根王で、この二柱の王には五柱の娘がありました。日子坐王が山城之荏名津比売(やましろのえなつひめ)、またの名は刈幡戸弁(かりはたとべ)を娶って生んだ子は大俣王(おおまたのきみ)、次に小俣王(こまたのきみ)。次に志夫美宿禰王(しぶみのすくねみこ)。併せて三柱。また、春日建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)の娘、名は沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ、沙本は奈良県北部の佐保川の北岸)を娶って生んだ子は沙本毘古王(さほびこのみこ)。次に袁耶本王(おざほのみこ)。次に後に第十一代垂仁天皇の后となる沙本毘売命(さほびめのみこと)、またの名は佐波遅比売(さはじひめ)。次に室毘古王(むろびこのみこ)。併せて四柱。また、近淡海(滋賀県)の御上(みかみ、野洲市三上の御上神社)の祝(はふり、神主)が祭る天之御影神(あめのみかげのかみ)の娘、息長水依比売(おきながのみずよりひめ、息子は滋賀県米原市飯の東部)を娶って生んだ子は旦波比古多多須美知宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)。次に水穂真若王(みずほのまわかのみこ)。次に神大根王(かむおおねのみこ)、またの名は八爪入日子王(やつめいりびこのみこ)。次に水穂五百依比売(みずほのいおよりひめ)。次に御井津比売(みいつひめ)。併せて五柱。また、その母の妹の意祁津比売命(おけつひめのみこと)を娶って生んだ子は山代之大箇木真若王(やましろのおおつつきのまわかのみこ)。次に比古意須王ひこいすおのみこ)。
大俣王の子は曙立王(あけのたつみこ)。菟上王(おなかみのみこ)。併せて二柱。曙立王は伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖です。菟上王は比売陀君の祖です。
次に小俣王は当麻勾君の祖です。次に志夫美宿禰王は佐佐君の祖です。次に沙本毘古王は日下部連、甲斐国造の祖です。次に袁耶本王は葛野之別、近淡海の蚊野之別の祖です。次に室毘古王は耳別の祖です。
美知能宇斯王が丹波之河上之麻須郎女(たにはのかわかみのますのいらつめ)を娶って生んだ子は比婆須比売命(沙本毘売命亡き後、垂仁天皇の皇后となる。)。次に真砥野比売命(後に垂仁天皇の妃として召されるが、容姿が醜いために送り返され入水する)。次に弟比売命(後に垂仁天皇の妃となる)。
次に朝庭別王。併せて四柱。朝庭別王は三川の穂別の祖です。美知能宇斯王の弟の水穂真若王は近淡海の安直の祖です。次に神大根王は三野国の本巣国造、長幡部連の祖です。
次に山代之大箇木真若王が弟の伊理泥王の娘の丹波能阿治佐波毘売を娶って生んだ子は迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)。この王が丹波之遠津臣の娘、名は高材比売を娶って生んだ子は息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)。この王が葛城之高額比売を娶って生んだ子は息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと、後の神功皇后。仲哀天皇の皇后)。次に虚空津比売命(そあつひめのみこと)。次に息長日子王(おきながひこのみこ)。併せて三柱。息長日子王は吉備の品遅君、針間の阿宗君の祖です。また、息長宿禰王が河俣稲依毘売(河俣は大阪府東大阪市川俣)を娶って生んだ子は大多牟坂王(おおむたさかのみこ)、この王は多遅麻国造の祖です。
また、建豊波豆羅和気王は道守臣、忍海部造、御名部造、稲葉の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古らの祖です。
第十代 崇神天皇
后妃と皇子女
開化天皇崩御の後、第三皇子の御真木入日子印恵命(みまきいりびこえのみこと)が即位あそばされました。第十代崇神天皇です。限られた情報しか記載の無かった欠史八代と比べると、崇神天皇については細かく記されています。
崇神天皇は師木宮(奈良県桜井市金谷)で天下をお治めになりました。天皇は、三人の后妃との間に、男王七、女王五、併せて十二柱の皇子女を儲けました。『古事記』はここで崇神天皇の后妃と皇子女を列挙しています。箇条書きにすると次のようになります。
后妃 遠津年魚目目微比売(紀伊国、和歌山県を本拠地とする豪族・木国造、荒河刀弁の娘)
意富阿麻比売(尾張連の祖)
御真津比売命(第八代孝元天皇の皇子大毘古命の娘)
皇子女 豊木入日子命(とよきいりびこのみこと、母:遠津年魚目目微比売)
豊鉏入日売命(とよすきいりびめのみこと、別名:豊鉏比売命、母:遠津年魚目目微比売)
大入杵命(おおいりきのみこと、母:意富阿麻比売)
八坂之入日子命(やさかのいりびこのみこと、母:意富阿麻比売)
沼名木之入日売命(ぬなきのいりびめのみこと、母:意富阿麻比売)
十市之入日売命(とおちのいりびめのみこと、母:意富阿麻比売)
伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりびこいさちのみこと、後の第11代垂仁天皇、母:御真津比売命)
伊耶能真岩若命(いざのまわかのみこと、母:御真津比売命)
国片都久和比売命(くにかたひめのみこと、母:御真津比売命)
千千都久和比売命(ちちつくわひめのみこと、母:御真津比売命)
伊賀比売命(いがひめのみこと、母:御真津比売命)
倭日子命(やまとひこのみこと、母:御真津比売命)
崇神天皇の皇子のうち、伊玖米入日子伊沙知命が次に践祚(天皇の御位に就くこと)あそばされます。後の第十一代垂仁天皇です。
豊木入日子命は上毛野君、下毛野君らの祖です。その妹の豊鉏比売命(とよすきひめのみこと)は伊勢大神宮を祭りました(未婚の内親王が伊勢の神宮に奉仕する「斎宮」の起源を語ったものと思われる)。次に、大入杵命は能登臣の祖です。次に、倭日子命は、この王に初めて墓に人垣を立てました。これは、陵墓の周囲に人を生き埋めにすることです。
三輪山の大神
崇神天皇の御世には疫病が多く起こり、人民は死んで尽きそうになりました。この時、天皇はお悲しみになり、嘆いて神牀(かむとこ)という、夢に神意を得るための特別に清めた寝床で夜をお眠りになっていらっしゃると、大物主大神が夢に現れ、次のように仰せになりました。
「これは我が御心である。意富多多泥古に我が御魂を祭りなさい。そうすれば神の祟りも起こらず、国は安らかに治まるだろう」
早速、天皇は早馬による使いを四方に御差遣になり、意富多多泥古という人を探させ、河内の美怒村(大阪府八尾市上之島町付近)にその人を見付けました。そこで天皇が「あなたは誰の子か」とお尋ねになると「私は大物主大神が陶津耳命の娘の活玉依毘売を娶って生んだ櫛御方命(くしみかたのみこと)の子の、飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)の子の、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子の意富多多泥古です」と申し上げました。
すると、天皇は大いにお喜びになり「天下は治まり、人々は栄える」と仰せになって、意富多多泥古を祭主として、御諸山に意富美和之大神(大三輪大神。大物主神を指す。奈良県桜井市三輪の大神神社の御祭神)を拝み祭りました。
また、伊迦賀色許男神に命じて何枚もの平たい素焼きの皿を作らせ、天神地祇(あまつかみくにつかみ、高天原の天つ神と葦原中国の国つ神を指す)の社を定め祭りました。また、宇陀墨坂神(奈良県宇陀市榛原区の西峠に祭られていた神)に赤色の縦と矛を祭り、また、大坂神(奈良県香芝市逢坂の地に祭られていた神)に黒色の楯と矛を祭り、また坂の尾根の神や河の瀬の神にも、ことごとく残す所なく幣帛(みてぐら)を奉りました。これによって疫病はすっかり止み、国は安らかに治まりました。
さて、この意富多多泥古が神の子であると知ったのには、次のような理由がありました。
とても美しい活玉依毘売のもとに、ある夜遅く、突然若い男がやって来ました。その若い男は、容姿と威厳は比類無いほどでした。その夜、二人は惹かれあい、結ばれて一晩一緒に過ごしていると、まだどれほどの時間も経っていないのに、その美人は妊娠しました。
そこで父母が、妊娠したことを怪しみ、その娘に「おまえは自ずと妊娠した。夫もいないのに、なぜ妊娠したのか」と聞きました。すると、活玉依毘売は「麗しい男の人がいて、その名前も知らないのですが、毎晩私の所にやってきて、一緒に夜を過ごしている間に、自然と妊娠したのです」と答えました。
父母はその男のことを知りたく思い、娘に「赤土を床の前に散らし、糸巻に巻いた麻糸を針に通して、その衣の裾に刺しなさい」と答えました。
活玉依毘売は言われたとおりにし、翌朝に見てみると、針で付けた麻糸は戸の鍵穴から通り出て、残った麻糸は三勾(みわ、三巻という意味。)だけでした。
これによって、その男が小さな鍵穴から出て行ったことを知り、その糸を辿っていくと、美和山(三輪山)に至り、神の社に続いていたので、その男が神の子であると分かりました。その麻糸が三勾残っていたことにより、その地を美和というのです。意富多多泥古命は神君(奈良県桜井市三輪の大神神社えお祀る一族。「みわのきみ」とも)、鴨君(大和国葛上郡、奈良県御所市周辺の豪族で、祭祀を担った。京都の加茂氏の祖とも伝えられている)の祖です。
これが「三輪山伝説」です。
建波邇安王の反逆
崇神天皇は、第八代孝元天皇の御子である大毘古命を高志道(北陸道)に御差遣になり、大毘古命の子である建沼河別命を東方十二道(東海地方を中心とした諸国)に御差遣になって、大和朝廷に従わない人々を和らげて平定させました。また、崇神天皇の兄弟にあたる日子坐王を旦波国(京都府と兵庫県の一部)に遣わせて玖賀耳之御笠を殺させました。
ところで、大毘古命が高志国に行く途中、腰に短い裳を着けた少女が、山代(山城国、京都府南部)の幣羅坂(奈良と京都の間にある坂のことか)に立って次のように歌っていました。
御真木入日子はや 御真木入日子はや 己が緒を 盗み殺せむと 後つ戸よ い行き違い 前つ戸よ い行き違い 窺はく 知らにと 御真木入日子はや
(御真木入日子(崇神天皇)よ。御真木入日子よ。自分の命をこっそり殺そうとする者が、後ろの戸から行き違い、前の戸から行き違い、すきをうかがっているのも知らないで御真木入日子よ。)
これを聞いた大毘古命は奇妙に思って馬を返し、その少女に「あなたが言うのは、一体どう言う意味か」と問いました。少女は「私は何も言っていません。ただ歌を詠んでいただけです」と言って、たちまち姿を消して行方が分からなくなりました。
そこで大毘古命は、すぐに都に戻り、天皇に報告すると、天皇は「これは、山代国に住む、あなたの庶兄(腹違いの兄)の建波邇安王(建波邇夜須毘子命)が、邪心を起こしたことの徴ではないかと思う。伯父上、軍を率いて行きなさい」と仰せになり、丸邇臣の祖である日子国夫玖命を従わせて遣わせました。この時、丸邇坂(奈良県天理市和邇町・櫟本町辺りにある坂)に忌瓮(いわいべ、神を祭る清浄な瓶)を据えてから出発しました。
山代の和訶羅河(木津川)に着くと、やはり建波邇安王が軍を率いて待ち構えていました。そこで両軍は河を挟んで向かい合い、戦いに挑みました。そこでその地名を伊杼美(いどみ)と言います。(京都府木津川市木津町)。今は「伊豆美」といいます。
はじめに日子国夫玖命が「そちら側から、まず忌矢(いわいや、戦のはじめにお互いに射合う神聖な矢)を放ちなさい」と言いました。そこで建波邇安王が矢を射るも、何にも当たりません。
次に日子国夫玖命が放った矢は、建波邇安王を射殺しました。これにより、建波邇安王の軍勢はことごとく戦に破れて逃げ散りましたが、逃げる軍勢を追い詰めて久須婆之渡(くすばのわたり、大阪府枚方市楠葉)に着いた時、皆追い込められ、苦しめられて糞をもらして袴にかかりました。そこでその地を糞袴といいます。今は「久須婆」といいます。
また、逃げる軍をさえぎって斬ると、鵜のように河に死体が浮きました。そこで、その河を名付けて鵜河といいます。さらに、兵士を斬り放ったので、その地を名付けて波布理曾能(はふりその、京都府精華町祝園)といいます。大毘古命と日子国夫玖命は、このように平定し終えると、参上して崇神天皇に報告しました。
さて、その後大毘古命は、最初の命令のとおりに高志国に向かいました。途中、相津(会津国、福島県)で、東方に派遣されていた子の建沼河別命と行き会いました。それで、その地を相津というのです。
このようにして遣わされた国を平定したので、天皇に報告しました。これにより天下はとてもよく治まり、人々は富み栄えました。
ゆえに、その御世を称えて、崇神天皇のことを「初国知らしし御真木天皇」ともうし挙げるのです。
この御世に依網池(大阪市住吉区庭井の大依羅神社付近にあった池)を作り、また軽の酒折池(奈良県橿原市大軽町付近にあった池)を作りました。いずれも灌漑用溜池です。
崇神天皇は御年百六十八歳で、戊寅年十二月に崩御あそばされました。
『古事記』では、この時初めて崩御年に干支が付けられます。戊寅は西暦258年に該当すると思われます。
御陵 山辺の道の勾之岡の上にあります。(比定地:奈良県天理市柳本町)
陵名・古墳 山辺道勾岡上陵、柳本行燈山古墳、纏向遺跡の北東に位置する)。
第十一代 垂仁天皇
后妃と皇子女
伊玖米入日子伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)は師木の玉垣宮(たまがきのみや、奈良県桜井市穴師、纏向遺跡内)で天下をお治めになりました。第十一代垂仁天皇です。天皇は二人の后と五人の妃の間に十三柱の王(みこ)と、三柱の女王(ひめみこ)を儲けました。
『古事記』はここで垂仁天皇の后妃と皇子女を列挙しています。箇条書きにすると次のようになります。
后妃 佐波遅比売命(さはじひめのみこと、沙本毘売命、沙本毘古王の妹)
氷羽州比売命(ひばすひめのみこと、比婆須比売命、旦波比古多多須美知宇斯王の娘)
沼羽田之入毘売命(ぬばたのいりびめのみこと、氷羽州比売命の妹)
阿耶美能伊理毘売命(あざみのいりびめのみこと、沼羽田之入毘売命の妹)
迦具夜比売命(かぐやひめのみこと、大箇木垂根王の娘)
刈羽田刀弁(かりはたとべ、山代の大国之淵の娘)
弟刈羽田刀弁(おとかりはたとべ、山代の大国之淵の娘)
皇子女 品牟都和気命(ほむつわけのみこと、本牟智和気御子、母:佐波遅比売命)
印色之入日子命(いにしきのいりびこのみこと、母:氷羽州比売命)
大帯日子淤斯呂和気命(おおたらしひこおしろわけのみこと、後の第十二代景行天皇、母:氷羽州比売命)
大中津日子命(おおなかつひこのみこと、母:氷羽州比売命)
倭比売命(やまとひめのみこと、母:氷羽州比売命)
若木入日子命(わかきいりびこのみこと、母:氷羽州比売命)
沼帯別命(ぬたらしわけのみこと。母:沼羽田之入毘売命)
伊賀帯日子命(いがたらしひこのみこと、母:沼羽田之入毘売命)
伊許婆夜和気命(いこばやわけのみこと、母:阿耶美能伊理毘売命)
阿耶美都比売命(あざみつひめのみこと、母:阿耶美能伊理毘売命)
袁耶弁王(おざべのみこ、母:迦具夜比売命)
落別王(おちわけのみこ、母:刈羽田刀弁)
五十日帯日子王(いかたらしひこのみこ、母:刈羽田刀弁)
伊登志別王(いとしわけのみこ、母:刈羽田刀弁)
石衝別王(いわつくわけのみこ、母:弟刈羽田刀弁)
石衝毘売命(いわつくびめのみこと、別名:布多遅能伊理毘売命、母:弟刈羽田刀弁)
垂仁天皇の皇子のうち、大帯日子淤斯呂和気命が次に践祚(せんそ)あそばされます。後の第十二代景行天皇です。御身の丈は一丈二寸(約1.9m)、膝からくるぶしまでの長さは四尺一寸(約74cm)ありました。(周尺によると一寸=約1.9cm)。
次に、印色之入日子命は血沼池(大阪府泉佐野市下瓦屋にあった池)、狭山池(大阪府大阪狭山市の池)、日下の高津池(大阪府東大阪市日下町にあった池)を作りました。また、鳥取(大阪府阪南市東部)の河上宮(大阪府阪南市自然田にあったとされる宮)で太刀千本を作らせ、これを石上神宮(奈良県天理市の石上神宮)に祭り、その宮で河上部(刀剣類を作る技術集団か)を定めました。
次に、大中津日子命は山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張国の三野別、吉備の石無別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別らの祖です。次に、倭比売命は伊勢大神宮を拝み祭りました(伊勢の神宮の創建)。次に、伊許婆夜和気命は沙本の穴太部之別の祖です。次に阿耶美都比売命は稲瀬毘古王の妻になりました。次に、落別王は小月の山君、三川の衣君の祖です。次に、五十日帯日子王は春日の山君、高志の池君、春日部君の祖です。次に、伊登志別王は子がなかったため、子代(名を後代に伝えるための部君か)として伊登志部を定めました。次に、石衝別王は羽咋君、三尾君の祖です。次に、石衝毘売命は、またの名は布多遅能伊理毘売命といい、倭建命の后になりました。
沙本毘古王と沙本毘売
垂仁天皇は沙本毘売を后になさいました。ところが、沙本毘売命の兄の沙本毘古王(第九代開化天皇の御子の日子坐王の子)は、妹に「夫と兄とどとらが愛しいか」と問いました。
妹の沙本毘売が「兄が愛しく思います」と答えると、沙本毘子王は謀って「あなたが本当に私を愛おしく思うのであれば、私とあなたとで天下を治めよう」と言い、何度も繰り返して鍛えた鋭利な紐付きの小刀を妹に授け「この小刀で、天皇が寝ているところを刺し殺しなさい」と言って命じました。
天皇はその謀をご存じなく、その后の膝を枕にしてお休みになっていらっしゃいました。沙本毘売は紐小刀で天皇の御首を刺そうとして、三度も振り上げましたが、哀しい心を抑えきれず、首を刺すことはできず、涙があふれ、その涙が御面(天皇の顔)に落ちました。
すると、天皇は驚いて目をお覚ましになり、その后に「私は不思議な夢を見た。沙本(奈良県佐保台辺り、沙本毘古王の居所)の方から大雨が近づいて、急に私の顔を濡らした。また綿色の小さな蛇が私の首に巻きついた。この夢は一体何の兆しなのだろう」と御下問あそばされました。
それを聞いた后は、隠すことはできないと思い、天皇に次のように申し上げました。
「私の兄である沙本毘古王は、私に『夫と兄とどちらが愛しいか』と尋ねました。面と向かって問われたので気後れし、私は『兄を愛しく思います』と答えました。すると『私とあなたとで天下を治めよう。天皇を殺しなさい』と言って、何度も繰り返して鍛えた鋭利な紐付きの小刀を私に授けました。これであなた様の御首を刺そうと、三度振り上げましたが、哀しい気持ちが急に湧き上がってきて、首を刺すことができず、涙があなた様の顔に落ちたのです。きっとこの兆しでしょう」
天皇は「私は危うく欺かれるところだった」と仰せになり、沙本毘古王を討伐する軍を起こしました。この時、沙本毘古王は稲城(稲を積んで作った城)を作って戦いに備えていました。
ところが、沙本毘売命は兄をかわいそうに思い、後ろの門から逃げ出して、その稲城に行ったのです。この時、沙本毘売は妊娠していました。天皇は、后が妊娠したこと、また三年の間愛でてきたことを忍びなく思し召され、軍で取り囲むも、急に攻めることはなさいませんでした。
このように討伐が遅れている間に、后が孕んだ御子が生まれました。后はその御子を稲城の外に置いて、使者を立てて「もしこの御子を、天皇の御子と思し召されるのでしたら、お引き取りになって下さい」と申し上げさせました。
天皇は「あなたの兄を恨んでいるものの、后を愛しく思う気持ちは変わらない」と仰せになりました。后を取り戻したいお気持ちでいらっしゃったのです。天皇は、兵の中から、力が強く動作も機敏な者をお集めになり「御子を取る時、母親をも奪い取ってきなさい。髪でもあれ手でもあれ、つかんで引き出しなさい」と命ぜられました。
沙本毘売はそのことを察知して、髪を剃り、剃った髪で頭を覆い、玉の緒(玉飾り)を腐らせて、三重に手を巻き、また酒で衣服を腐らせ、普通の服のようにまといました。このように備え、御子を抱いて城の外に出ました。
ここに兵がやって来て、その御子を取り、母親を捕まえようとしました。けれども、髪をつかめば髪はずり落ち、手を握れば玉の緒が切れ、服をつかめば服が破れました。これによって、御子を連れ出すことはできましたが、母親を得ることはできませんでした。
兵たちは、天皇のもとに還り「髪は自ら落ち、衣服は簡単に破れ、また手に巻いた玉の緒もぎれました。ですから、母親を得ずに、御子を取り戻しました」と申し上げました。
天皇は悔い恨み、玉を作った人たちを憎み、その土地をすべてお取り上げになりました。そこで、ことわざで「地(ところ)を得ぬ(土地を持たない玉作」(当時の成句で、賞を得ようとしたことによって、かえって罰を受けることのたとえか)というのです。
また、天皇は沙本毘売に「子の名前は必ず母親が名付けるものだが、この子の名前を付けて欲しい」と仰せになると、后は「稲城を焼く時になって、火の中に生れました。ですから、その名は本牟智和気御子とするのが良いでしょう」と申し上げました。
続けて天皇が「いかにして育てたら良いか」とお尋ねになると、后は答えて「子に乳を与える乳母、そして子に湯を浴びる大湯坐と若湯坐(「湯坐」は乳児を入浴させる婦人のことで、「大」は正、「若」は副を意味する)を定めて養育するべきでしょう」と申し上げました。そして后の言うとおりにお育てになりました。
また后に「おまえが結んだ瑞の小偑(おひも)は誰が解いたら良いのか」(夫婦がお互いに下紐を結ぶ習慣があった)とお尋ねになると、后は「旦波比古多多須美知宇斯王の娘、兄比売と弟比売。この二人の女王は忠誠心のあつい人たちなので、彼女たちを使うべきでしょう」と申し上げました。
この後、天皇はついに沙本毘古王を殺しました。すると、沙本毘売もこれに従って自害しました。
もの言わぬ本牟智和気御子
母親の沙本毘売は自害してしまいましたが、その御子(本牟智和気御子)は、父親である垂仁天皇のもとで育てられました。
さて、天皇が御子を連れてお遊びになる様子は、尾張(愛知県西部)の相津(あいづ、所在不明)にある二股に分かれている杉の木から二股に分かれている丸太舟を作って、それを大和国(ならけん)の市師池や軽池に運んで浮かべてお遊びになるほどでした。ところが、その御子は、幾握りもある長い顎鬚が胸元に垂れ下がるまで、言葉をお話しになりませんでした。
ある時、空高く飛んでいく白鳥の声をお聞きになって、御子が初めて口をパクパクさせてものを言うとまさいました。そこで天皇は山辺の大タカという人物を遣わせて、その白鳥を捕らえようとなさいました。
そして、この人はその白鳥を追って、木国(紀伊国、和歌山県)から針間国(京都府と兵庫県の南西部)に至り、また、追って稲羽国(因幡国、鳥取県東部)を越えて、旦波国(京都府と兵庫県の一部)、多遅麻国(但馬国、主に兵庫県北部)に至り、東の方に追い廻り、近淡海国(近江国、滋賀県)に至り、三野国(美濃国、主に岐阜県南部)を越え、尾張国(愛知県西部)を通って科野国(信濃国、長野県)に追い、ついに高志国((越国、北陸地方)に追い至り、和那美之水門(所在未詳)に罠を張り、その鳥を捕まえて天皇に献上しました。そこで、その水門を「罠網」にかけて「和那美の水門」というのです。
大タカは、白鳥を追って多くの国を飛び回りましたが、これは御子のために労力を惜しまなかったことを示すものと思われます。
天皇は、御子がその鳥を見たらまた口をパクパクさせ、今度はものを言うかもしれないとご期待あそばされたのですが、御子がそのようにものを言うことはありませんでした。
こうして天皇が悩んでお眠りになっていらっしゃる時、夢の中で次のような声が聞こえました。
「我が宮を整えて天皇の宮殿のようにしたらならば、御子は必ず話せるようになるだろう」
このように教えられたので、太占で占って、どの神のお考えかをお求めになると、その祟りは出雲大社の御心であることが分かりました。太占とは、鹿の肩の骨を焼いてヒビの入り方で吉凶を判断する古代の占いです。
早速、その御子に大神の宮を参拝させに遣わそうとして、誰を従わせれば良いか占うと、曙立王が良いと分かりました。そこで曙立王に命じて誓約をさせました。誓約とは、前もって決めておいた結果が出るかどうかによって、事の真偽を占うことです。
「この大神を拝むことによって、誠に良いことが起こるなら、この鷺巣池の木にいる鷺よ、誓約によって落ちよ」
このように言うと、その鷺は地に落ちて死にました。また「誓約によって生きよ」というと、再び生き返りました。また、甜白檮(奈良県明日香村豊浦の甘樫丘)の前にある葉の大きな樫の木を誓約によって枯らし、また誓約により茂らせました。そこで、天皇は曙立王に、倭者木師登美豊朝倉曙立王(やまとのしきとみとよあさくらのあけのたつのみこ)という名前を賜いました。
そして、曙立王と菟上王の二柱を御子に従わせ御差遣いになった時に、占うと「那良戸(大和国と山代国の間にある奈良山越えの入口)からだと跛盲(あしなえめしい、足や目が不自由な人)に遭うだろう。大坂戸(大和国と河内国の間にある大坂山越えの入口)からもまた跛盲に遭うだろう。ただ木戸(大和国と紀伊国の間にある真土山越えの入口)こそ縁起の良い入口である」と分かりました。そしてお発ちになって、土地ごとに品遅部(ほむじべ、垂仁天皇の御名代としての部民。御名代は皇族私有の労働集団のこと)をお定めになりました。現在ではこのような考え方は適切ではありませんが、昔は「跛盲」と遭遇することは不吉なことと考えられていたようです。
そして、出雲に至り、大神を参拝して帰る時に、斐伊川の中に黒い巣橋(皮付きの丸太を組んだ橋)を作って、仮宮を建てて、御子をお泊めになって頂きました。出雲国造の祖である岐比佐都美が、飾り物として青葉の茂る山の形を作って、その川下に立てて、大御饌(神様のお食事)を奉ろうとする時に、御子が次のように言ってお尋ねになりました。
「この川下にある青葉の山は、山のように見えて山ではない。もしかすると、出雲のいわくまの曾宮(出雲大社のことか)に鎮座する葦原色許男大神(あしはらしこおのおおかみ、大国主神の別名)を祭るための神主の祭場だろうか」
ついに御子が言葉を発せられたのです。お供に遣わされた王たちは、これを聞いて喜び、見て喜び、御子に檳榔(あじまさ)の長穂宮(所在不明)にお留まり願い、早馬の使いを立て、天皇に報告しました。
ようやく言葉をお話しになった御子は、一晩、肥長比売(ひながひめ)と交わりました。ところがその美人の姿をそっと覗いてみると、なんと蛇でした。御子は驚いてお逃げになりました。すると、肥長比売は悲しみ、海原を照らしながら船で追ってきました。御子はますます驚き、山が低くくぼんでいる所から船を引き上げてお逃げになりました。
都に戻ると、曙立王と菟上王の二王は「大神を拝んだことによって、大御子が言葉をお話しになりましたので、参上しました」と、天皇に報告しました。天皇はお喜びになり、菟上王を出雲に返して、そこに神の宮を造らせました。
こうして天皇は、御子が言葉をお話しになったことにちなみ、鳥を捕ることを職業とする部民である鳥取部、鳥を飼うことを職業とする部民である鳥甘部や、品遅部、大湯坐、若湯坐をお定めになりました。
返された円野比売命
また天皇は、かつて后の沙本毘売命が亡くなる時に遺言で申し上げたとおり、旦波比古多多須美知宇斯王の娘たち、比婆須比売命、弟比売命、歌凝比売命、円野比売命(真砥野比売命)の四柱を妻になさいました。
ところが、比婆須比売命と弟比売命の二柱はお留めになりましたが、あとの妹の二柱はとても醜かったために生まれ故郷にお返しになりました。
すると、円野比売命は恥じて「同じ姉妹の中に、姿が醜いからといって帰されたことが近所で噂になることでしょう。これはとても恥ずかしいことです」と言って、山代国の相楽(京都府相楽郡・木津川周辺)に着くと、木の枝に首を吊って死のうとしました。そこで、その地を名づけて懸木(さがらき)というようになったのです。今は相楽といいます。そして、弟国(京都府乙訓郡・長岡京市周辺)に着くと、ついに深い淵に落ちて死にました。そこで、その地を名づけて堕国といい、今は弟国というのです。
姉妹がそろって同じ男性の妻になるのは、古代における婚姻の形でしたから、珍しい話ではありませんでした。その後、徐々にその形は変わっていきます。
常世国の木の実
また天皇は、三宅連(新羅系渡来氏族。各地に居住し、朝廷直轄領の屯倉を管理したとされる)の祖である、多遅摩毛理(たじまもり)を常世国(海の彼方にある不老不死の国)に御差遣になって、非時香木実(ときじくのかくこのみ)という一年中採れる香りの良い木の実を求めさせました。この木の実を食べると不老不死になると言われていました。天皇は永遠の命をお求めになったのです。
そして、多遅摩毛理がついにその国に至り、その木の実を採り、縵八縵(かげやかげ)と矛八矛(ほこやほこ)を持って帰ろうとしましたが、その間に天皇は崩御あそばされました。「縵」とは木の実を紐でつなげたもので、「矛」とは木の実が枝についたままのもの。「縵八縵」と「矛八矛」は、それぞれ八つの縵と八つの矛を意味すると思われます。
そこで多遅摩毛理は、縵四縵と矛四矛を分けて、大后に献上し、残りの縵四縵と矛四矛を天皇の御墓の入口の戸に供え、その木の実を捧げて、叫び泣いて次のように申し上げました。「常世国の非時香木実を持って参上しました」。多遅摩毛理はこのように叫ぶと、死にました。その非時香木実は、今の橘(柑橘系の総称)のことです。
垂仁天皇の御年は、百五十三歳。御墓は菅原の御立野の中にあります。(比定地:奈良県奈良市尼辻西町、陵名:菅原伏見東陵、古墳名:尼辻宝来山古墳)。
またその后の比婆須比売命は、石棺や石室を作る部民の石祝作を定め、また埴輪や土器を作る部民の土師部(はにしべ)を定めました。この后は、狭木の寺間の陵に葬られました。(比定地:奈良県奈良市山陵町、陵名:狭木之寺間陵、古墳名:佐紀陵山古墳)。
第十二代 景行天皇
后妃と皇子女
大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、纏向の日代宮(奈良県桜井市穴師)において天下をお治めになりました。第十二代景行天皇です。
天皇は多くの妻をお持ちになり、八十人の御子を授かりました。御子たちは、名前などが記録されているのが二十一王、記録されていないのが五十九王です。
『古事記』はここで景行天皇の后妃と皇子女を列挙しています。箇条書きにすると次のようになります。
后妃 針間の伊那毘能大郎女(いなびのおおいらつめ、吉備臣らの祖である若日子建吉備津日子命[第七代子霊天皇皇子]の娘。若日子建吉備津日子命は、孝霊天皇の条に吉備国を平定したと記されている)
八坂之入日売命(やさかのいりびめのみこと、八坂之入日子命、[第十代崇神天皇皇子]の娘)
妾甲(未詳)
妾乙(未詳)
日向の美波迦斯毘売(ひむかのみはかしびめ)
伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ、針間の伊那毘能大郎女の妹)
訶具漏比売(かぐろひめ、迦具漏比売命、倭建命の曾孫あるいは孫である須売伊呂大中子王の娘)
皇子女 櫛角別王(くしつのわけのみこ、母:針間の伊那毘能大郎女)
大碓命(おおうすのみこと、母:針間の伊那毘能大郎女)
小碓命(おうすのみこと、別名:倭男具那命、後の倭建命、母:針間の伊那毘能大郎女)
倭根子命(やまとねこのみこと、母:針間の伊那毘能大郎女)
神櫛王(かむくしのみこ、母:針間の伊那毘能大郎女)
若帯日子命(わかたらしひこのみこと、後の第十三代成務天皇、母:八坂入日売命)
五百木之入日子命(いおきのいりびこのみこと、母:八坂入日売命)
押別命(おしわけのみこと、母:八坂入日売命)
五百木之入日売命(いおきのいりびめのみこと、母:八坂入日売命)
豊戸別王(とよとわけのみこ、母:妾甲)
沼代郎女(ぬのしろのいらつめ、母:妾甲)
沼名木郎女(ぬなきのいらつめ、母:妾乙)
香余理比売命(かごよりひめのみこと、母:妾乙)
若木之入日子王(わかきのいりびこのみこ、母:妾乙)
吉備之兄日子王(きびのえひこのみこ、母:妾乙)
高木比売命(たかぎひめのみこと、母:妾乙)
弟比売命(おとひめのみこと、母:妾乙)
豊国別王(とよくにわけのみこ、母:日向の美波迦斯毘売)
真若王(まわかのみこ、母:伊那毘能若郎女)
日子人之大兄王(ひこひとのおおえのみこ、母:伊那毘能若郎女)
大枝王(おおえのみこ、母:訶具漏比売)
これらの御子の中でも若帯日子命と倭建命と五百木之入日子命の三王は、皇位を継承する資格を持つ太子におなりあそばされます。その他の七十七王は、みな国造、和気、稲置、県主に任命され、諸国を与えられました。国造」「稲置」「県主」は地方官のことです。また「和気=別」は皇別氏族(天皇から分かれた氏族)の姓です。
中でも若帯日子命は次に即位あそばされます。第十三代成務天皇です。また、後に小碓命は、東西の荒ぶる神、そして、まつろわぬ(従わない)人々を平定なさいます。
次に、櫛角別王は茨田下連らの祖です。次に、大碓命は守君、大田君、島田君の祖です。次に、神櫛王は木国の酒部阿比古、宇陀の酒部の祖です。次に、豊国別王は日向国造の祖です。
大碓命と小碓命
景行天皇は、三野国(美濃国、岐阜県)に兄比売と弟比売という、それはたいそう美しい嬢子がいるとお聞きになりました。この姉妹は、三野国造の祖である大根王の娘です。そこで天皇は、御子の大碓命を姉妹の所に御差遣いになり、二人を連れてくるように命ぜられました。
しかし、遣わされた大碓命は、美しい姉妹を天皇の元に連れ帰らず、じぶんがその二人と結婚してしまいました。そして大碓命は他の女性二人を探し、その女性を連れ帰り、兄比売と弟比売だと嘘をついたのです。ところが天皇は、その二人が別の女性であることにお気付きになりました。そして、天皇はその二人を御召しになることなく放置し、共寝することもなく、二人の女性を思いに悩ませました。
大碓命が兄比売を娶って生んだ子は押黒之兄日子王。これは三野の宇泥須和気の祖です。また、弟比売を娶って生んだ子は押黒弟日子王。これは牟宜都君らの祖です。
この景行天皇の御世では、田部(朝廷の御料田を耕作する部民)を定めました。また、東国の淡水門(浦賀水道)を開き、また膳(料理人)の大伴部を定め、また、倭屯家(朝廷の御料理)を定め、また、坂手池(奈良県田原本町阪手にある池)を作り、竹をその堤に植えました。
大碓命は、朝と夕方に行われている宮中での行事に真面目に参加しませんでした。そこで、天皇がその弟の小碓命に「どうしておまえの兄は、朝夕の大御食に出席しないのか。おまえが兄を教え覚しなさい」と仰せになりました。ところが、それから五日経っても、兄の大碓命は行事に参加しません。
そこで天皇は小碓命に「どうしておまえの兄は、まだ来ないのか。おまえはまだ兄を教え覚していないのか」とお尋ねになると、小碓命は「すでに言い聞かせました」と申し上げました。
そこで天皇が「どのように言い聞かせたのか」とお尋ねになると、小碓命は「明け方に兄が厠に入った時、待ち構えてつかみ潰して、手足を引き裂いて、袋に包んで投げ捨てました」と申し上げました。
それをお聞きになった天皇は、その御子の猛々しい荒い性格を恐れ、小碓命を遠ざけるための口実として、次のように命ぜられました。「西の方に熊曾建が二人いるこれはまつろわぬ者である。その者どもを討て」。熊曾は西の辺境の地、また建は勇猛な人を意味します。
小碓命は、この時はまだ、その髪を額の上で結う少年の髪型をしていました。何も知らない小碓命は、叔母の倭比売命から衣装を賜り、剣を懐に収めて、勇んで出発しました。
小碓命の熊曾征伐
西の方にいる熊曾建兄弟を征伐するように命ぜられた小碓命は、早速旅立ち、九州南部に遠征しました。この時代、交通手段が無いばかりか、街道もまだ整備されていませんから、近畿から九州までの度は、大変長い道のりだったに違いありません。
熊曾建の家に着いて様子をうかがっていると、周囲は兵士が三重に守り堅めていて、その中に頑丈な家が建てられているのが分かりました。そこで、小碓命は、家の周囲を注意深く観察しながら、その宴の日を待ちました。
ついに宴の日になると、小碓命は若い女性のように結んだ髪を垂らし、叔母の倭比売命から借りた女物の服をまとい、すっかり童女の姿に変装して、女性たちの間に混ざって、その新築の家の中にまんまと入り込んだのです。
熊曾建兄弟二人は、童女に変装した小碓命をすっかり気に入ってしまい、二人の間に座らせて宴を楽しみました。そして、宴もたけなわにになったころ、小碓命は懐から剣を出して、兄の熊曾の着物の襟をつかみ、剣を胸に突き刺し通しました。
弟建はそれを見て驚き、怖くなって逃げ出しました。小碓命すぐに追いかけて、その家の階段の下まで行くと、その背中をつかみ、剣を尻から突き刺し通しました。
すると熊曾建は「その剣を動かさないでください。私は申し上げたいことがあります」と言いました。
そこでしばらくとどめを刺すのをやめて、押し伏せておくと「あなた様はどなたですか」と尋ねたので、小碓命は「私は纏向の日代宮で大八島を治める大帯日子淤斯呂和気天皇(景行天皇)の御子、名は倭男具那王である。天皇は、貴様ら熊曾建二人が我々に従わず、礼もわきまえないとお聞きになり、打ち取るよう命ぜられ、私をお遣わしになったのだ」と言いました。
それを聞いた熊曾建は「まさにそのとおりです。西の方には私たち二人を除いて、猛々しい強い者はいません。しかし、大和国には、私たち二人よりも猛々しい方がいらっしゃいました。そこで、私があなた様に御名を差し上げたく思います。これからは」、倭建御子と称えましょう」と申し上げました。
熊曾建はそう言い終えると、すかさず、熟した瓜を切り刻むように、小碓命は熊曾建の体をずたずたに切り刻んで殺しました。この時から、御名を称えて倭建命と申し上げます。
こうして途中、山の神、河の神、また海峡の神を、皆説得して、平らげながら大和の地にお帰りになりました。
倭建命の出雲征伐
さて、倭建命は大和にお帰りになる途中、出雲建も殺そうと思し召い、出雲国にお入りになりました。すると倭建命は、すぐに出雲建と友達になります。
倭建命は密かに樫の木で偽の太刀を作り、それを腰に佩いて、出雲建と共に斐伊川に沐浴にお出掛けになりました。
倭建命は先に河からお上がりになると、出雲建が外した太刀を佩いて「太刀を変えよう」と仰せになりました。そして、出雲建は河から上がると、倭建命の偽の太刀を佩きました。そこで倭建命は「いざ太刀合わせをしよう」と仰せになりました。
それぞれが太刀を抜こうとすると、出雲建は偽の太刀を佩かされているので、太刀が抜けません。倭建命は太刀を抜くと、すかさず出雲建を撃ち殺しました。そして次のお歌をお詠みになりました。
やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 黒葛多纏き さ身無しにあはれ
(出雲建が腰に佩いた太刀は、鞘に蔓の模様がたくさん巻きついていて立派だが、刀身がなくて、ああ気の毒だ。)
倭建命は、こうしてことごとく平定あそばされて都にお帰りになり、天皇に復命なさいました。
倭建命の東征
倭建命が西征を終えて大和にお帰りになると、父の景行天皇は「東方十二道(ひむかしのかたとおりあまりふたみち、東海地方を中心とした諸国)の荒ぶる神、及び従わない者どもを説得して平定せよ」と命ぜられました。
この時天皇は、吉備臣(吉備国、岡山県・広島県東部の豪族)らの祖である御鉏友耳建日子を副えて御差遣いになり、比比羅木の八尋矛を賜いました。これは柊で作った長い矛のことで、邪気を払う力を持っていると考えれています。
倭建命は天皇の命令を受けて東にお出掛けになる時、伊勢大御神宮(伊勢の神宮)に参り、神のおわすお宮を拝み、その地にいた叔母の倭比売命に次のように申し上げました。
「天皇は、本当は私が死んだら良いと思っておいでなのではないでしょうか。なぜ西の方の悪人たちを討ちに遣わし、帰って来てまだ時間が経っていないのに、軍勢も与えられないまま、今度は東方十二道の悪人たちを平定するために遣わすのでしょう。やはり私など死んだら良いと思っておいでなのでしょう」
このように申し上げ、悲しみ泣いてご出発になる時、倭比売命は草薙剣を賜いました。そして袋をお授けになり「もし困ったことがあれば、この袋の口を開きなさい」と仰せになりました。こうして倭建命は東国への遠征に出立に出立なさいます。
尾張国に着いた倭建命は、尾張国造(尾張連。尾張国、愛知県西部の豪族)の祖である、美夜受比売の家にお入りになりました。すぐに結婚しようと思し召しましたが、また帰る上る時にしようと、婚約なさって東国にお発ちになり、山河の荒ぶる神、そして従わない者たちを、ことごとく説得して平定あそばされました。
そして、相武国(さがむのくに、相模国、神奈川県)に御出ましになった時、その国造が偽って「この野の中に大沼があり、この沼の中に道速振る(霊力のある)神です」と申し上げました。そこで倭建命は、その神をご覧になるためにその野にお入りになりました。
ところが、その国造は野に火をつけたのです。欺かれたことをお知りになると、倭建命は叔母の倭比売命から賜った袋の口をお開きになりました。ご覧になると、その中には火打石が入っていました。
まず剣で草を刈り払い、火打石で火を起こして、向火をつけて焼き退け、そこから脱出してから、国造どもをきり滅ぼして、火をつけて焼きました。ゆえに、その地を焼遺(やいづ、駿河国、静岡県焼津市)といいます(したがって「相武国(相模国)」は「駿河国」の間違いか)。
そこからさらに東にお進みになり、走水海(浦賀水道、東京湾の入口)をお渡りになろうと思し召すと、その海峡の神が波を起こし、船を翻弄してぐるぐるとまわしたため、お渡りになることができませんでした。
そこで、倭建命の后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと、婚約している美夜受比売とは別か)が「私が御子に変わって海の中に入りましょう。御子は遣わされた任務を全うし、天皇に報告なさらねばなりません」と申し上げると、海に入ろうとして、菅畳八重(幾重にも重ねた菅を編んだ敷物)、皮畳八重(幾重にも重ねた毛皮で編んだ敷物)、絹畳八重(幾重にも重ねた絹の敷物)を波の上に敷いて、そこに下りました。
すると、荒波は自然と収まり、船を進めることができたのです。この時、弟橘比売命は次のお歌を詠みました。
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
(相模の野原に燃える火の、その火の中に立って、呼びかけて下さった君よ)
そして七日の後、弟橘比売命の櫛が海辺で見つかりました。そこで、その櫛を取り、御陵を作って納め置きました。
そこからさらに東にお進みになり、荒ぶる蝦夷たち(野蛮な人たち)をことごとく説得し、また山河のあらぶる神たちを平定して、大和にお帰りになる途中、足柄(神奈川県の足柄山)の坂の下に至り、乾飯(旅行用の食糧)をお召し上がりになっていらっしゃると、その坂の神が、白い鹿となって現れました。そこで、食べ残した蒜(ひる)のかけらを持って投げ付け、その目に当てて撃ち殺しました。そして、その坂に昇り立ち、三度ため息をおつきになって「吾妻はよ(我が妻よ)」と仰せになりました。ゆえに、その国を阿豆麻(あずま、東)というのです。
それから、その国を越えて、甲斐にお着きになって、酒折宮(山梨県甲府市にある酒折神社)で次の歌をお詠みになりました。
新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
(新治(にいち、茨城県旧新治村)や筑波(茨城県つくば市)の地を過ぎてから、幾夜くらい寝たろうか)
その時、かがり火を焚く老人が、お歌に続けて次の歌を詠みました。
かがなべて 夜には九夜 日には十日を
(日に日を並べて、夜には九夜、日は十日になります。)
そこで、その老人を誉めて、東国造を賜いました。
美夜受比売との結婚
倭建命は、ようやく東の蝦夷たちを皆説得し、山河の荒ぶる神たちを平定し終えると、大和への帰途におつきになりました。途中、足柄から科野(信濃国、長野県)にお戻りになりました。
そして、前に約束していた美夜受比売の所にお入りになりました。美夜受比売は尾張国造の祖の家柄に当たります。かつて倭建命がこの地においでになった時、東の地からお戻りになった時に結婚なさると約束していらっしゃいましたが、倭建命はその約束をお果たしになったのです。
倭建命に大御食(天皇の御膳)が差し上げられると、美夜受比売が大御酒盞(天皇に差し上げるお酒)を捧げて献上しました。「大御食」や「大御酒盞」という言葉が使われていることから、ここでは倭建命が天皇の代理人とされていることが分かります。
この時、美夜受比売の襲(重ねて着る衣)の裾には月経(女性の生理の血液)が付いていました。そこで倭建命はその月経をご覧になって次のお歌をお詠みになりました。
ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くび) 弱細 たわや腕を 枕かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が着せる 襲衣の裾に 月立ちにけり
(天の香具山を、鋭くやかましく鳴いて渡って行く白鳥よ。その首のように、か細くて、か弱くて細いしなやかな腕を、枕としようとはするけれど、共に寝たいと私は思うけれど、あなたが着ている上着の裾に、新月が出てしまった。)
すると、美夜受比売がお歌を答えて、次の歌を詠みました。
高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は経行く うべな うべな うべな 君待ち難に 我が着せる 襲衣の裾に 月立たなむよ
(太陽のように光輝く皇子よ。国の隅々まで統治する我が大君よ。年が過ぎてゆきます。ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに。あなたを待ちきれないで、私が着ている上着の裾に、月が出てしまいました。)
伊吹山の神の怒り
このようにして、倭建命は美夜受比売と御合あそばされ、交わると、その御刀の草薙剣を、美夜受比売のもとに置いて、伊吹(滋賀県と岐阜県の境)の山の神を討ちにお出掛けになりました。ところが、倭建命が草薙剣を置いて出立あそばされたことは、後に大きな禍となります。
倭建命は「この山の神は、剣を使わずに、素手で真正面から殺そう」と仰せになって、山にお登りになりました。その時、山の麓で白い猪と遭遇なさいました。その大きさは牛のようでした。
そこで、言挙なさって「この白い猪に化けているのは、その神であろう。今殺さなくても、帰る時に殺そうではないか」と仰せになって登りました。「言挙」とは、自己の意志を声に出して言い立てることで、タブーとされていました。
すると、激しい雹が降ってきて、倭建命を打って気を失わせました。この白い猪に化けていたのは、神の使いではなく、その神自身でした。倭建命が言挙なさったので、その神は倭建命の気を失わせたのです。
その後、帰りになり、玉倉部の清泉(所在不明)に着御あそばされ、お休みになっていらっしゃった時、徐々に意識が回復なさいました。ゆえに、その清泉を名付けて居寤清泉(いさめのしみず)というのです。
その地からご出発になり、当芸野(たぎの、岐阜県養老町)の辺りにお着きになった時、次のように仰せになりました。
「私の心は、常に空を飛んで翔けていきたいと願っていた。しかし今、私の足は歩くことができず、たぎたぎしく(腫れてむくんだ様)なってしまった」
そこで、その地を名付けて当芸というのです。
その地から少しだけ進むと、とてもお疲れになったので、杖をついてそろそろとお歩きになりました。そこで、その地を名付けて杖衝坂(三重県四日市市)というのです。
どうやら、あれだけ強かった倭建命に死期が近づいているようです。
倭建命の薨去
倭建命が尾津前(三重県桑名市多度町付近)の一本松の所へお着きになると、かつてそこで食事をなさった時にお忘れになった御刀が、なくならずにありました。そこで次のお歌をお詠みになりました。
尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 あせを
(尾張の国にまっすぐに向かっている、尾津前の一本松よ。あせを。一本松が人であったなら、太刀を佩かせてあげるのに。着物を着せてあげるのに。一本松よ。あせを。)
その地よりお進みになり、三重の村(三重県四日市市采女町)に至った時、倭建命は次のように仰せになりました。
「私の足は三重の勾餅のように、腫れてねじ曲がってしまい、とても疲れた」
そこで、その地を三重というのです。
そこから、さらにお進みになり、熊煩野(のぼの、三重県鈴鹿市と亀山市にまたがる地帯)に至ると、国を偲んで次のお歌をお詠みになりました。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし
(大和は国の中でも最も優れた国である。畳み重ねたようにくっついた、国の周囲を廻る、青々とした垣根のような山々の内に籠っている。大和は美しい。)
また、次のお歌をお詠みになりました。
命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子
(命の無事な人は、平群の山の、樫の葉を髪に挿して、力強く生きなさい。皆の者よ。)
この歌は思国歌(くにしのびうた)です。また、次のお歌をお詠みになりました。
愛しけやし 我家の方よ 雲居起ち来も
(懐かしい、自分の家の方から、雲が湧いてくるよ。)
これは思国歌の片歌です。片歌とは五・七・七の三句から成る歌です。この歌をお詠みになった時、倭建命は危篤になり、次のお歌をお詠みになりました。
嬢子の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
(乙女[美夜受比売]の床にの傍に、私が置いてきた剣の太刀(草薙剣)よ。その太刀よ。)
このお歌をお詠みになると、倭建命は息をおひきとりになり、崩(かむあが)りあそばされました。そこで、都へ早馬の使いが出されました。
大御葬の歌
大和にいらっしゃっる天皇の后たちや御子たちは、報せをお聞きになると、皆倭建命の所に行って、御陵を作り、なづき田(御陵の周囲の田)を這い廻って、泣いて御歌をお詠みになりました。
なづき田の 稲幹に 稲幹に 匍ひ廻ろふ 野老蔓(ところづら)
(御陵の周りの田の、稲の茎に、稲の茎に、まとわりついている、やまいもの蔓よ。)
すると、倭建命の魂は亡骸を抜け出し、大きな白い千鳥の姿になって、天を翔けるように、浜に向かって飛んで行きました。そこで、その后や御子たちは、小竹の切り株で足を切りながらも、痛さを忘れて泣きながら追いました。この時に次の御歌をお詠みになりました。
浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
(丈の低い篠の原を行くと、篠が腰にまとわりついて苦労する。鳥のように空を飛んで行くこともできず、足でぼとぼとと歩いて行くしかない。)
また、海に入り、難渋しながら進んだ時に、次の御歌をお詠みになりました。
海処行けば 腰なずむ 大河原の 植ゑ草 海処は いさよふ
(海に入っていくと、海水が腰にまつわって苦労する。広い川の水面に生えている草が漂うように、海の中では漂って足をとられて進みにくい。)
また千鳥が飛んでその磯に止まった時、次の御歌をお詠みになりました。
浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ
(浜の千鳥は、歩きやすい浜を飛んで行かずに、歩きにくい磯伝いに飛んで行く。)
この四首の歌は、皆その御葬で歌った歌です。ゆえに、今に至るまでこれらの歌は、天皇の大御葬で歌う歌なのです。
そして、千鳥はその国から飛んで翔けて行き、河内国の志幾(大阪府柏原市周辺)に留まりました。そこで、その地に御陵を作って鎮座頂きました。そのようなわけで、御陵を名付けて白鳥御陵というのです。しかし、千鳥はまたその地よりさらに天に翔けて飛んで行きました。
ところで、倭建命が国を平定しにお出掛けになった時、久米直の祖である、七拳脛(ななつかはぎ)が常に膳夫(料理人)として従い仕えていました。
倭建命の妃と御子
『古事記』はここで倭建命の御子について記しています。箇条書きにすると次のようになります。倭建命の妃と御子は次の各六柱です。
妃 布多遅能伊理毘売命(第十一代垂仁天皇の皇女)
弟橘比売命(海に身投げをして海を鎮めた)
布多遅比売(近淡海の安国造の祖である意富多牟和気の娘)
大吉備建比売(吉備臣建日子の妹)
山代の玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)
一妻(未詳)
御子 帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと、後の第十四代仲哀天皇、母:布多遅能伊理毘売命)
若建王(わかたけるのみこ、母:弟橘比売命)
稲依別王(いなよりわけのみこ、母:布多遅比売)
建貝児王(たけかいのみこ、母:大吉備建比売)
足鏡別王(あしかがみわけのみこ、母:山代の玖玖麻毛理比売)
息長田別王(おきながたわけのみこ、母:一妻)
この中で、帯中津日子命が後に成務天皇の次に即位あそばされました。第十四代仲哀天皇です。
次に、稲依別王は、犬上君、建部君らの祖です。次に建貝別王は、讃岐の綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮道之別らの祖です。次に、足鏡別王は、鎌倉之別、小津の石代之別、漁田之別らの祖です。次に、息長田別王の子は杙俣長日子王。その子は、飯野真黒比売命。次に息長真若中比売。次に弟比売、併せて三柱。
また、若建王が、飯野真黒比売命を娶って生んだ子は、須売伊呂大中日子王。この王が、淡海の柴野入杵の娘、柴野比売を娶って生んだ子は、迦具漏比売命。
そして、大帯日子天皇(第十二代景行天皇)が、その迦具漏比売命を娶って生んだ子は大江王、一柱。
大江王が、庶妹の銀王を娶って生んだ子は大名方王。次に大中比売命。併せて二柱。そして、この大中比売命は香坂王、忍熊王の母親です。
大帯日子天皇(景行天皇)の御年は百三十七歳。御陵は山辺の道(三輪山の麓の道)の辺りにあります。(比定地:奈良県天理市渋谷町、陵名:山辺道上陵、古墳名:渋谷向山古墳)
第十三代 成務天皇
第十三代 成務天皇
若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと)は、近淡海の志賀の高穴穂宮(滋賀県大津市穴太)において天下をお治めになりました。第十三代成務天皇です。
この天皇が、穂積臣らの祖である建忍山垂根の娘、名は弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶って生んだ子は和訶奴気王、一柱。しかし、『日本書紀』には成務天皇の皇后や御子についての記述は無く、また御子が皇位を継承した記録も無いことから、『古事記』に記される一柱の御子は、若くして亡くなったものと考えられます。
そして、建内宿禰(第八代孝元天皇の孫)を大臣(宮廷の臣の中でも最高位の臣に対する尊称)とし、大小の国々の国造を定めました。また、国々の境界、及び大小の県の県主を定めました。
天皇の御年は九十五歳。乙卯年(西暦355年)三月十五日に崩御あそばされました。御陵は沙紀の多他那美(奈良県北部)にあります。
(比定地:奈良県奈良市山陵町、陵名:狭城楯列池後陵、古墳名:佐紀石塚山古墳)
第十四代 仲哀天皇
后妃と皇子女
帯中津日子天皇(倭建命の御子)は穴門の豊浦宮(山口県下関市長府豊浦町)、また筑紫の訶志比宮(福岡県東区香椎)で天下をお治めになりました。第十四代仲哀天皇です。
この天皇が大江王の娘、大中比売命を娶って生んだ御子は香坂王、忍熊王。併せて二柱。
また、大后の息長帯比売命(神功皇后)を娶って生んだ御子は品夜和気命。次に大鞆和気命、またの名は品陀和気命、併せて二柱。
この太子の御子を大鞆和気命とした理由は、生まれた時、鞆(弓を射る時に、左肘に付ける武具)のような形の肉が腕にありました。そこで、その御名に付けたのです。太子は、後に示すとおり母親の胎内においでになりながら国をお治めになります。この天皇の御世に淡道の屯家(淡路島の朝廷の御料地)が定められました。
仲哀天皇の崩御
その大后の息長帯比売命はある時、神をお帰せになりました。『神を帰せる』とは、自らの体に神霊を乗り移らせて神の言葉を求めることです。
仲哀天皇が筑紫の訶志比宮で、熊襲(南九州)を討とうとなさった時、天皇は琴をお弾きになり、建内宿禰の大臣は忌み清めた祭場で神の言葉を求めました。この時大后が帰神(かみよせ)をして次のように神託をお告げになりました。
「西の方に国がある。そこには金銀をはじめとして、目の輝くような種々の珍宝が多くある。私が今から、その国を帰服させよう」。
しかし天皇は「高い所に登って西の方を見ても、国は見えず、ただ大海があるだけだ」と仰せになり、偽りをなす神だと思し召し、琴を押しやってお弾きになろうとせず、静かにお座りになっていらっしゃいました。
すると、その神は大いにお怒りになり「およそこの天下は、おまえが治める国ではない。おまえは一道(人が向かう道、死の国)に向かえ」とお告げになりました。
そこで建内宿禰の大臣は「畏れながら、我が天皇よ。やはりその大御琴をお弾きあそばせ」と申し上げ、そろそろとその琴を引き寄せると、天皇はしぶしぶと琴をお弾きになりました。
すると、間もなく琴の音が聞こえなくなったので、火を灯して見ると、すでに天皇は崩御あそばされておいででした。仲哀天皇は、神の怒りに触れて呪い殺されてしまったのです。
天皇が呪い殺されると、残された者たちは驚き恐れ、亡骸を嬪宮(葬るまでぼ間、亡骸を安置する所)に移しました。さらに穢れを祓うために、供え物に使う品々を国中から取り寄せました。そして、生剥(獣の皮を、生きたまま剥ぐこと)、逆剥(獣の皮を、尻の方から剥ぐこと)、阿離(田の畝を壊すこと)、溝埋(田の溝を埋めること)、屎戸(糞を放って神聖な場所を穢すこと)、上通下通婚(親子間の不倫な性交)、馬婚(馬との性交)、牛婚(牛との性交)、鶏婚(鳥との性交)、犬婚(犬との性交)等の罪の類をさまざまに調べ、国の大祓をして、また、建内宿禰が祭場で神の言葉を求めました。
そうすると、この時に神から告げられた言葉は、細かい所まで前のお告げと同じでした。やはり、海の向こうの西の国を攻めろというのです。そして、「およそこの国は、あなた(神功皇后)の御腹にいる御子が治める国である」とのお告げがありました。
そこで建内宿禰が「畏れおおい、我が大神、その神(神功皇后のこと。神がかっているので皇后を「神」といった)の腹にいる御子はどちらの性別でしょうか」と申し上げると、大神は「男子である」とお答えになりました。
建内宿禰は続けて「今このように教えてくださる大神の御名を知りたく思います」と述べて詳しく求めると、大神は次のように仰せになりました。
「これは天照大御神の御心である。また、我が底箇男、中箇男、上箇男の三柱の大神である」
これにより、その三柱の大神の御名が明らかになったのです。
この三柱の大神は、天照大御神と同じく、伊邪那岐神の禊で生まれた神で、住吉大社(大阪市住吉区)の御祭神の墨江大神です。大神は続けて仰せになりました。
「今、本当にその国を求めようと思うならば、天神地祓、また山の神と河・海の神に、ことごとく幣帛(木綿や麻などの神への供え物)を奉り、我が御魂を船の上にのせて、真木の灰を瓢に納め、また箸と葉盤(ひらで、木の葉で作った皿)を多く作り、それらを大海に散らし浮かべて渡ると良い」。
神功皇后の新羅遠征
そこで神功皇后が、つぶさに教えられたとおりにあそばされ、軍を整え、船を並べて海を渡りお進みになった時、海原の魚が、大小にかかわらず、ことごとく船を背負って渡りました。そのうえ、強い追い風が吹いて、船は波が寄せるのにまかせて進んだのです。そしてついに、その船が立てた波は新羅国に押し上がり、その波は勢い良く国の中程にまで達しました。
ここにその国王は畏まって「今より後は、天皇のお言葉に随い、自ら御馬甘として、年ごとに船を並べて、船の腹を乾かすことなく、棹や舵を乾かすことなく、天地が続く限り永遠に仕え奉ります」と申し上げました。
これにより、新羅国を御馬甘と定め、百済国を渡屯家(外地にある朝廷の御料地)と定めました。そして、神功皇后はその御杖を新羅の国王の家の前に衝き立てて、墨江大神の荒御魂(神霊の動的な部分)を国守神として祭り鎮め、国にお帰りになりました。
神功皇后は、新羅征討の仕事がまだ終わらないうちに、子を生みそうになりました。そこで、すぐに生まれないように、御腹を鎮め、落ち着かせようとあそばされ、石をお取りになって服の腰にお巻きになりました。
そして、新羅から帰り筑紫国にお渡りになると、御子(品陀和気命)がお生まれになりました。後の第十五代応神天皇です。ゆえに、その御子の生まれた地を名付けて宇美(うみ、福岡県宇美町)といいます。また、服に巻き付けた石は筑紫国の伊斗村(福岡県糸島市)にあります。
また、筑紫の末羅県の玉島里(佐賀県唐津市の玉島川のほとり)に着き、その川辺でお食事をなさいましたが、その時はちょうど四月の上旬でした。そこで、その川面に突き出した岩に座って、服の糸を抜き取り、飯粒を餌にして、年魚をお釣りになりました。その川の名を小河、またその磯の名を勝門比売といいます。ゆえに、四月の上旬に、女人が服の糸を抜き、飯粒を餌にして年魚を釣ることが、今に至るまで絶えないのです。
香坂王と忍熊王の反逆
出産を終えた神功皇后が大和国(奈良県)にお帰りになる時、人々の心が疑わしく、生まれたばかりの子の命が狙われる危険がありました。その兄たちが軍を差し向ける可能性があったのです。そのため、神功皇后は喪船(棺を乗せる船)を一隻用意させ、御子をその喪船に乗せて「御子はすでに亡くなりました」と言い広めました。
このようにして大和に向かうと、御子の腹違いの兄である香坂王と忍熊王がこれを聞いて待ち受け、御子を殺害する計画を立て、斗賀野(大阪市とする説と、神戸市とする説がある)に進み出て、誓約狩をしました。誓約狩とは占いの一種で、神に誓って狩りをして、神意を伺い、吉凶を判断することです。
そこで香坂王が、櫟の木に登って遠くを眺めていたところ、大きな怒れる猪が現れ、その櫟の木を掘って倒し、香坂王を食い殺しました。しかし、弟の忍熊王はそれを恐れずに、軍勢を集めて立ち向かいました。喪船をやりすごし、兵船を攻めようとしたのです。ところが、その兵船は実が空で、喪船の方から軍勢が下りてきて戦が始まりました。これは罠だったのです。この時、忍熊王は難波吉師部(難波吉師は渡来系民族)の祖である伊佐比宿禰を将軍とし、太子の方は丸邇臣の祖である難波根子建振熊命を将軍としました。そして、太子方が追い退けて山代(京都府南部)に至った時、還り立って、双方はお互いに退かず戦いました。
そこで、建振熊命が謀をめぐらせて「神功皇后はすでに亡くなった。だから、もう戦うことはなかろう」お伝えさせ、弓の弦を切り、偽って降伏する振りをしました。伊佐比宿禰は逢坂(京都府と滋賀県の境)まで逃げ退き、向かい立ってさらに戦いました。
建振熊命は追い攻めて、沙沙那美(琵琶湖の南岸)で相手を破り、ことごとくその兵を斬りました。そこで、忍熊王は伊佐宿禰と共に追い攻められて、船に乗り、琵琶湖に浮かびながら次の歌を詠みました。
いざ吾君 振熊が 痛手負はずは 鳰鳥の 淡海の海に 潜きせなわ
(さあ、我が将軍よ。振熊の重い手傷を負う前に、水鳥のカイツブリのように近江の海に潜りましょう。)
このように詠うと、二人は琵琶湖に身を投じて死にました。
気比大神との名前の交換
戦いに勝った神功皇后の大臣の建内宿禰は、その太子(品陀和気命)を連れて、戦の禊をしようとして、淡海(琵琶湖)や若狭湾(福井県南西部)を廻りました。その時、高志前の角鹿(福井県敦賀市)に仮宮を造って滞在しました。
すると、そこに住む伊奢沙和気大神之名(いざさわけのおおかみのみこと)が御子(太子、品陀和気命)の夢に現れて、「私の名を御子の御名と換えたい」と仰せになりました。そこで、御子が「畏まりました。お言葉のとおりにいたしましょう」と申し上げると、その神は「明日の朝、浜に行きなさい。名を換えたことへの贈り物を与えよう」と仰せになったのです。
翌日の朝、御子が浜にお出掛けになると、鼻が傷ついたイルカが、浦一面に打ち上げられていました。ところで、古のイルカ漁は銛で鼻を突いて捕えるため、捕らえたイルカの鼻にはその傷が付いていたのです。
イルカを目の当たりにした御子は「私に御食の魚を与えて下さいました」と神に申し上げました。御食とは神に差し上げるお食事のことで、神の食料が御子に下賜されたことを意味します。
そこで、その御名を称えて、その神を御食津大神と名付けました。今に言う気比大神です。気比大神は気比神宮(福井県敦賀市)の御祭神とされています。またそのイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を名付けて血浦といいます。それが都奴賀(つぬが)となりました。現在の敦賀です。
酒楽の歌
こうして御子が禊を済ませて大和にお帰りになった時、母親の息長帯日売命(神功皇后)は待酒を用意あそばされました。そこで息長帯日売命が次の御歌をお詠みになりました。
この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少名御神の 神寿き 寿き狂し 豊寿き 寿き廻し 献り来し御酒ぞ 止さず飲せ ささ
(この御酒は、私が醸した御酒ではありません。酒を司るお方で、常世国においでになり、この国では岩のお姿でお立ちになっておいでの少名毘古那神が、祝福し、祝福して踊り狂い、祝福し尽くして、祝福して踊り回って醸し、下さった御酒です。飲み干しなさい。さあ。)
このようにお詠みになり、大御酒を献りました。そこで建内宿禰命が御子のために答えて次の歌を詠みました。
この御酒を 醸みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやに うた楽し ささ
(この御酒を醸した人は、その鼓を臼のように立てて、歌いながら酒を醸したからか、舞いながら酒を醸したからか、この御酒は、この御酒は、なんとも愉快だ。さあ。)
これは酒楽の歌で、酒宴の場の歌を意味します。御子は角鹿の神と名を交換し、神が作った酒で宴を行うことで、即位が承認されました。第十五代応神天皇です。
神の怒りに触れて落命なさった、御子の父に当たる帯中津日子天皇(第十四代仲哀天皇)は御年五十二歳、壬戌年(西暦362年)六月十一日に崩御あそばされました。御陵は河内の恵賀の長江にあります(比定地:大阪府藤井寺市藤井寺、陵名:恵我長野西陵、古墳名:岡ミサンザイ古墳)。
また、新羅遠征の大事業を成し遂げた神功皇后は御年百歳で崩御あそばされました。狭城の楯列陵に埋葬されました。(比定地:奈良県奈良市山稜町宮ノ谷、陵名:狭城楯列池上陵、古墳名:五社神古墳)
第十五代 応神天皇
后妃と皇子女
品陀和気命(第十五代応神天皇)は、父の第十四代仲哀天皇が崩御あそばされた時、まだ母親のお腹の中にいらっしゃいました。ですから応神天皇は、お腹の中ですでに天皇に即位しておいでになったという意味を込めて「胎中天皇」とも称されます。応神天皇は軽島の明宮(奈良県橿原市大軽町)で天下をお治めになりました。『古事記』はここで后妃と皇子女を列挙しています。
后妃 高木之入日売命(たかぎのいりびこのみこと、品它真岩王の娘、品陀真岩王は、五百木之入之日子命が尾張連の祖である建伊那陀宿禰の娘の志理都紀斗売を娶って生んだ子)
中日売命(なかつひめのみこと、品它真岩王の娘)
弟日売命(おとひめのみこと、品它真岩王の娘)
宮主矢河枝比売(みやぬしのやかわえひめ、丸邇の比布礼能意富の娘)
袁那弁郎女(おなべのいらつめ、宮主矢河枝比売の妹)
息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ、杙俣長日子王の娘)
糸井比売(いといひめ、桜井の田部連の祖である島垂根の娘)
日向の泉長比売(ひむかのいずみのながひめ)
迦具漏比売(かぐろひめ、倭建命の曾孫)
葛城の野伊呂売(かずらきのののいろめ)
皇子女 額高木之入日売命(ぬかたおおなかつひこのみこと、母:高木之入日売命)
大山守命(おおやまもりのみこと、母:高木之入日売命)
伊奢之真若命(いざのまわかのみこと、母:高木之入日売命)
大原郎女(おおはらのいらつめ、母:高木之入日売命)
高女郎女(こむくのいらつめ、母:高木之入日売命)
木之荒田郎女(きのあらたのいらつめ、母:中日売命)
大雀命(おおさざきのみこと、後の第十六代仁徳天皇、母:中日売命)
根鳥命(ねとりのみこと、母:中日売命)
安倍郎女(あへのいらつめ、母:弟日売命)
阿具知能三腹郎女(あわじのみはらのいらつめ、母:弟日売命)
木之菟野郎女(きのうののいらつめ、母:弟日売命)
三野郎女(みののいらつめ、母:弟日売命)
宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつめ、母:宮主矢河枝比売)
八田若郎女(やたのわかいらつめ、仁徳天皇妃、母:宮主矢河枝比売)
女鳥王(めどりのみこ、母:宮主矢河枝比売)
宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ、仁徳天皇妃、母:袁那弁郎女)
若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ、母:息長真若中比売)
速総別命(はやぶさわけのみこ、速総別王、母:息長真若中比売)
大羽江王(おおはえのみこ、母:日向の泉長比売)
小羽江王(おはえのみこ、母:日向の泉長比売)
幡日之若郎女(はたひのわかいらつめ、母:日向の泉長比売)
川原田郎女(かわらだのいらつめ、母:迦具漏比売)
玉郎女(たまのいらつめ、母:迦具漏比売)
忍坂大中比売(おしさかのおおなかつひめ、母:迦具漏比売)
登富志郎女(とおしのいらつめ、母:迦具漏比売)
迦多遅王(かたじのみこ、母:迦具漏比売)
伊奢能麻若迦王(いざのまわかのみこ、母:葛城の野伊呂売)
天皇の皇子女は、男十一、女十五の併せて二十六柱の王です(ただし、記載されているのは二十七柱王)。
多くの御子のうち、後に大雀命が即位あそばされ、天下をお治めになります。第十六代仁徳天皇です。
三皇子の分治
さて、応神天皇は大山守命と大雀命に「君たちは、年上の子と年下の子とどちらが愛しいと思うか」とお尋ねになりました。天皇がこの問いを発せられたのは、年下の宇遅能和紀郎子に天下を納めさせる心づもりがおありになったからでした。
ここで大山守命は「年上の子が愛しいです」と申し上げました。次に大雀命は、天皇がお尋ねになったその心を察し「年上の子はすでに大人となり、心配することはありませんが、年下の子はいまだ大人になっていないので、それは愛しいでしょう」と申し上げました。
そこで天の王は「雀(大雀命)よ、あなたの言うことは、私が思っていることだ」と仰せになって、次のように分けて命ぜられました。
「大山守命は山海の政(海部・山部・山守部などを治めること)をしなさい。大雀命は食国の政(天下の政治)を執り報告しなさい。宇遅能和紀郎子は皇位を引き継ぐために、太子になりなさい」
そして、大雀命は天皇の命令に背くことはありませんでした。
ところで、『古事記』は応神天皇の記事の途中で、宇遅能和紀郎子が生まれた経緯を次のように記しています。
ある時、天皇は近淡海国(近江国、滋賀県)にお進みになろうと思し召し、宇遅野(京都府宇治市)から、遥か葛野(京都市北西部)をお望みになって、次の御製をお詠みになりました。
千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見みゆ
(葉が茂るように豊かな葛野を見渡すと、満ち満ちているたくさんの家並みが見える。国の素晴らしいところも見える。)
そして、木幡村(京都府宇治市)に至った時、道の分かれた所で、麗しい嬢子と出会いました。天皇がその嬢子に「あなたは誰の子どもか」とお尋ねになると、その嬢子は「丸邇の比布礼能意富美(わにのひふれのおおみ)の娘で、名は宮主矢河枝比売です」と申し上げました。そこで、天皇はその嬢子に「私が明日帰る時に、あなたの家に寄ろう」と仰せになりました。
早速、矢河枝比売は、男の人と道端で出会ったことなどをつぶさにその父に語りました。すると父は「それは天皇に違いない。畏れ多いことだが、我が子よ、お仕えしなさい」と言って、家をきれいに掃除をして待っていると、翌日、約束どおり天皇がおいでになりました。
そして、比布礼能意富美がが大御酒盞を娘の矢河枝比売に持たせて献上すると、天皇はその大御酒盞をお取りになりながら、次の御製をお詠みになりました。
この蟹や 何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ 何処に到る 伊知遅島 美島に著き 鳰鳥の 潜き息づき しなだゆふ 佐佐那美道を すくすくと 我がいませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子 後姿は 小楯ろかも 歯並は 椎菱如す 櫟井の 丸邇坂の土を初土は 膚赤らけみ 底土は 丹黒き故 三つ栗の その中つ土を かぶつく 真火には当てず 眉画き こに画き垂れ 遇はしし女 かもがと 我が身し子ら かくもがと 我が見し子に うたたけだに 向ひ居るかも
(この蟹はどこの蟹だ。遠い遠い角鹿(福井県敦賀市、応神天皇がかつて神と名を交換した地)の蟹だ。横に歩くとどこに行く。伊知遅島(所在実生)、美島(所在実生)に着く。カイツブリ(水鳥の一種)が潜って息をするように、坂道が上り下りしている佐佐那美(琵琶湖南岸の登名)への道を、すくすくと私が進み、木幡の道で出会った乙女は、後姿が楯のようにすらりとしていて、歯並びは椎や菱の実のように白く、櫟井(奈良県天理市の櫟本町か)の丸邇坂の土の、上の方の土では肌が赤くなり、下の方の土では黒くなるので、中ほどの土を取り、直火に当てず、眉を濃くしり上がりに描いた、偶然に出会った乙女。こうもしたいと私が思った子、ああもしたいと思った子と、ついに向かい合っていることよ。寄り添っていることよ。)
このようにして出会って、生んだ御子が、宇遅能和紀郎子、応神天皇が皇位を継がせようとした御子です。
御子に与えられた髪長比売
応神天皇は、日向国の諸県君(日向国諸県郡、宮崎県南部の豪族)の娘、髪長比売の姿が美しいとお聞きになって、仕えさせようと、宮中に御召しになりました。
その時、大雀命は、大臣の建内宿禰に次のように頼みました。
「この、日向から天皇がお召し上げになった髪長比売を、天皇にお願いして、私に譲ってもらえないだろうか」
そこで、建内宿禰がそのことを天皇に申し上げると、天皇は髪長比売をその御子にお与えになりました。それは次のような様子でした。天皇が新嘗祭という宮中で行われるお祭りの翌日、豊明の宴会を催されたその日に、髪長比売に大御酒柏(柏の葉に盛った酒)を持たせ、太子にお与えになったのです。そこで天皇は次の御製をお詠みになりました。
いざ子ども 野蒜摘みに 我が行く道の 香ぐわし 花橘は 上つ枝は 鳥居枯らし 下枝は 三つ栗の 中つ枝の ほつもり 赤ら嬢子を 誘ささば 宜らしな
(さあ、皆の者。野蒜(ユリ科の多年草)を摘みに行こう。蒜を摘みに、私が行く道の、香しい花橘は、上の枝は鳥が留まって枯らし、下の枝は人が摘んで枯らしているから、誰も手を付けていない三つ栗の中ほどの枝の蕾のような、紅顔の美しい乙女を誘えば良いだろう。)
また、次の御製もお詠みになりました。
水溜る 依網の池の 堰杙打ちが 刺しける知らに 蒪繰り 延へけく知らに 我が心しぞ いや愚にして 今ぞ悔しき
(水をたたえる依網池の堰の杭を打つ人が、杭を打ったのも知らずに、蒪菜(ジュンサイ)採りが、蒪菜に手を伸ばしたのも知らずに、私の心はなんと愚かであろうか。今になって悔しさが残る。)
天皇はこの二首の御製をお詠みになり、髪長比売をお与えになりました。
そして、その嬢子を与えられた大雀命は次のお歌を詠みました。
道の後 古波陀嬢子を 雷の如 聞こえしかども 相枕枕く
(遠い国の古波陀(日向国諸県の地名か)の乙女は、雷のとどろくように、その噂が聞こえていたけれど、今は抱き合いながら寝ている。)
また、次のお歌も詠みました。
道の後 古波陀嬢子は 争はず 寝しくをしぞも 麗しみ思ふ
(遠い国の古波陀の乙女が、拒みもせずに共に寝たことを、愛しく思う。)
また、吉野の国主(土着の氏族)たちは、大雀命が帯びている御刀を見て次の歌を詠みました。
誉田の 日の御子 大雀 大雀 佩かせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆきの すからが下樹の さやさや
(品陀和気命(応神天皇)の御子、大雀、大雀よ。その身に佩いた太刀は、本が剣で先は増えている。その木の立派な幹の下に生える聖木が、風にそよいでさやさやと音を立てている。)
また、吉野の白檮上(奈良県吉野市樫尾)に横臼を作って、その横臼で大御酒を醸し、その大御酒を献った時、口鼓を打って舞いながら次の歌を詠みました。
白檮の上に 横臼を作り、横臼に 醸みし大御酒 うまらに 聞こしもち飲せ まろが父
(樫の生えている所で、横臼を作り、その横臼で醸した大御酒です。おいしくお召し上がりになってください。我らの父よ。)
この歌吉野の国主たちが天皇に貢物を献上するたびに、詠む歌です。
応神天皇の政
応神天皇の御世には、海部、山部、山守部、伊勢部が定められました。そして、剣池が作られました。また、この時代には新羅の人々が渡ってきました。また、建内宿禰命(第八代孝元天皇の孫)が渡来人を率いて、堤池という治水池を造らせました。
また、百済の国王である照古王が、牡馬一頭と牝馬一頭を阿知吉師に託して天皇に献上しました。この阿知吉師は阿直史らの祖です。また、太刀と大鏡も献上しました。阿直史は、朝廷の文章記録を担当した帰化氏族のひとつです。
また、天皇は百済国に「もし賢い人がいれば派遣するように」と命ぜられました。そこで、命令を受けて派遣されたのが和邇吉師です。百済国は、論語十巻、千字文(中国の文字習学のための書)一巻、併せて十一巻を和邇吉師に託して献上しました。和邇吉師は文首らの祖です。文首は、朝廷の文筆を担当した帰化氏族のひとつです。
また、百済国は手人韓鍛、名は卓素と、呉服の西素の二人を派遣しました。手人韓鍛は鍛冶職人、呉服は中国の呉の国の機織の女性のことです。
次に、秦造(山城国葛野郡、京都市北西部を本拠地とした渡来系豪族)の祖や漢直(大和国高市郡、奈良県明日香村を本拠地とした渡来系豪族)の祖、酒を醸す職人の仁番、またの名は須須許理らも渡ってきました。そして、須須許理は大御酒を醸して天皇に献りました。そこで天皇が、献られた大御酒でほろ酔いあそばされ、次の御製をお詠みになりました。
須須許理が 醸みし御酒に 我酔ひにけり 事無酒 笑酒 我酔ひにけり
(須須許理が醸した酒に、私は酔った。無事平安な酒、笑いを催す愉快な酒に、私は酔った。)
このようにお詠みになって、御出ましになった時、杖で大坂道(大和から河内へ越える坂)にあった大石をお打ちになろうとすると、その石は走って逃げました。そのため、今諺で「堅石も酔人を避く」(堅い岩も酔っぱらいをよける)と言うのです。
大山守命の反逆
応神天皇が崩御あそばれると、皇子三柱の間で皇位継承をめぐる争いが起きます。大雀命は応神天皇の遺言に従って、天下を弟の宇遅能和紀郎子に譲りました。ところが、一番上の兄である大山守命は応神天皇の命令に背き、天下を取ろうと考え、宇遅能和紀郎子を殺そうとして、密かに武器を準備して攻めようとしたのです。
大雀命は、兄が武器を準備していると聞くと、すぐに使者を遣わせて、宇遅能和紀郎子に伝えました。それを聞いて宇遅能和紀郎子は、兵士を宇治川もほとりに潜ませて、山の上に、絹で作った幕を張り、偽って舎人(天皇や豪族に仕え身の回りのお世話をする者)を御子に下て、よく見えるように王の椅子に座らせ、従う者たちをうやうやしく行き来させると、その様子はまるで御子本人がいるようでした。
そして、宇遅能和紀郎子は、兄の大山守命が川を渡る時に殺すことを計画しました。
船の櫓や櫂を準備して飾り、さな葛(モクレン科の植物)の根を搗き、その汁をとって、船の床に塗り、踏むと転ぶように仕掛けました。宇遅能和紀郎子は、布の服を着て、賎しい人の姿となり、梶をとって船にたちました。
すると兄王の大山守命は、兵士を隠して潜ませ、服の中に鎧を着て、川辺に来て船に乗ろうとしました。大山守命は、山の上に作られた偽の陣で、弟の宇遅能和紀郎子が椅子に座っていると思い込んだのです。
そして大山守命は、まさか宇遅能和紀郎子が楫を取って船に立っているとは思わずに、その楫を取る者に「この山に凶暴な大猪がいると聞く。私はその猪を討とうと思う。猪は獲れるだろうか」と聞くと、楫取りは「できないでしょう」と答えました。
大山守命がその理由を尋ねると、楫取りは「折々、あちこちで討とうとしてもできませんでした。それでできないと申し上げたのです」と答えました。
船が川の中央に差し掛かると、楫取りに扮した宇遅能和紀郎子は、船を傾かせて、大山守命を水の中に落とし入れました。大山守命は浮かび出て、水に流されました。そこで大山守命が水にながれながら次の歌を詠みました。
ちはやふる 宇治の渡に 棹取りに 速けむ人し 我がもこに来む
(宇治川の渡し場で、棹を取るのが素早い人よ。仲間になるために私の所にやって来るだろう。)
その時、川辺に伏せていた兵士が、あちこちから一斉に現れ、矢を放ちました。
大山守命は訶和羅之前(宇治川の下流の地名か)まで流れた所で沈んだので、鉤でその沈んだ所を探すと、大山守命が着ていた服の中の鎧に引っ掛かり「訶和羅」となりました。そこで、その地を訶和羅之前というのです。
大山守命の遺骸を引き上げた時、弟の宇遅能和紀郎子が次のお歌を詠みました。
ちはやひと 宇治の渡に 渡り瀬に 立てる 梓弓壇 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末方は 妹を思ひ出 苛けく そこに思ひ出 かなしくけく ここに思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓壇
(宇治川の渡し場の、渡し口に立っている、壇の木よ。伐ろうと心には思うけれど、取ってしまおうと心には思うけれど、根元の方を見ると君たちを思い出し、末の方を見ると妹を思い出し、心を痛めて思い出し、悲しいことも思い出し、だから伐らずに戻って来た。壇の木よ。)
大山守命の遺骸は那良山(大和国と山城国の間にある奈良山)に葬られました。大山守命は、土形君、弊岐君、榛原君らの祖です。
大山守命が命を落とし、遺骸が那良山に葬られると、大雀命と宇遅能和紀郎子の二柱の兄弟は、それぞれ天下を譲り合うことになりました。
そんな時、海人が大贄(神や天皇への貢ぎ物として奉る産物)を納めようとしました。すると兄はこれを辞退して弟に貢がせ、また弟もこれを辞退して兄に貢がせ。お互いに譲り合っている間に、多くの日数が経ちました。
このように譲り合うことは、一度や二度に留まらず、ついに海人は行き来に疲れて泣いてしまいました。そのため、今諺で「海人なれや、己が物によりて泣く」(海人のように、自分の持つ物のために泣かされる)というのです。
ところが、宇遅能和紀郎子は早くに薨去あそばされたため、大雀命が天下をお治めになることになりました。
新羅王の御子の渡来
また昔、新羅の国王の子がいました。名は天之日矛といいます。この人が日本に渡って来たその理由は次のようなものでした。
新羅国に一つの沼があり。名を阿具沼といいました。この沼のほとりに、一人の賎しい女が昼寝をしていました。すると、ここに日光が虹のように輝いて、その陰部を照らしました。
一人の賎しい男がいて、その様子を奇妙に思い、常にその女の行動をうかがっていました。すると、この女は昼寝をした時から身籠り、赤い玉を生んだのです。そこで、それをうかがっていた賎しい男は、その玉を頼んでもらい受け、包んで腰に付けました。
この人は、田を谷の間に作りました。そして、百姓たちの食料を一頭の牛に背負わせて、谷の中に入ると、国王の子の天之日矛に出会いました。
すると天之日矛は、その人に「なぜおまえは食料を牛に背負わせて谷に入るのか。おまえはきっとこの牛を殺して食べるのであろう」と言い、捕らえて牢屋に入れようとすると、その人は「私は牛を殺すことはしません。ただ百姓たちの食料を運んでいるだけです」と答えました。
しかし、許されませんでした。そこで、腰に付けていた玉を取り出して、国王の子である天之日矛に贈りました。すると天之日矛はその賎しい男を許し、その玉を持ち帰り、床の側に置くと、玉は美しい嬢子になったのです。
天之日矛は、その嬢子と結婚し、正妻としました。嬢子は、いつも様々な珍味を作り、常に夫に食べさせましたが、天之日矛は心が奢って妻を罵るので、その女人は「元々私はあなたの妻となるべき女ではありません。私は祖の国に行きます」と言い、密かに小舟に乗り、逃げ渡って来て、日本の難波(大阪市)に留まりました。これは難波の比売碁曾社に鎮座する阿加流比売命という神です。
そこで天之日矛は妻が逃げたと聞き、日本に渡って来て、難波に着こうとしたところ、その海峡の神が遮って天之日矛を入れません。天之日矛は、さらに戻って多遅摩国(但馬国、兵庫県北部)で待つことにしました。
そして、その国に留まって、多遅摩の俣尾の娘、名は前津見を娶って生んだ子は多遅摩母呂須玖。その子が多遅摩斐泥。その子が多遅摩比那良岐。その子が多遅摩毛理(垂仁天皇の命により常世国の木の実を採りに行った)、次に多遅摩比多訶、次に清日子。併せて三柱。この清日子が当摩之咩斐を娶って生んだ子は酢鹿之諸男、妹の菅竈由良度美。そして、前に述べた多遅摩比多訶が、その姪の由良度比を娶って生んだ子は葛城之高額比売命、これは息長帯比売命(神功皇后)の母親です。
そして、その天之日矛が持って新羅から日本に渡って来た物は玉津宝という神霊の宿る宝です。これは珠二貫(玉を緒で貫いたもの二巻)、そして浪振比礼、浪切比礼、風振比礼、風切比礼の比礼の四つ、また、奥津鏡、辺津鏡の鏡二つ、併せて八種で一揃えになっています。これは伊豆志の八前の大神です。(兵庫県豊岡市に八種の宝を御祭神とする出石神社がある)。
秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫
伊豆志の八前の大神には娘があり、名を伊豆志袁登売神(いずしおとめのかみ)といいました。そして、八十神(多くの神)が伊豆志袁登売神を得ようと思っていましたが、誰も結婚することはできませんでした。
ここに二柱の神がいました。兄は秋山之下氷壮夫といい、弟は春山之霞壮夫といいました。兄が弟に「私は伊豆志袁登売神を求めたけれど結婚できなかった。おまえはこの嬢子を得ることができるか」と問うと、弟は「簡単なことです」と答えました。
すると兄は、「もしおまえがこの嬢子を得ることができれば、私は上下の服を脱ぎ、身の丈を測って、それと同じ高さのある大きな甕に酒を醸してやろう。また山や川の産物をことごとく用意して、宇礼豆玖(賭けをする)ことにしよう」と言いました。
そこで弟が、兄が言うことを詳しく母に伝えると、母は藤葛(藤の蔓)を取って、一晩の間に服と履物を織り縫い、また弓矢を作り、衣服などを着せ、弓矢を持たせ、春山之霞壮夫をその嬢子の家に向かわせると、衣服や弓矢がことごとく藤の花になりました。そして春山之霞壮夫は、弓矢を嬢子の家の厠に立て掛けました。
そこで伊豆志袁登売神が藤の花を奇妙に思い、持って来ようとした時、春山之霞壮夫が嬢子の後ろに立ち、家に入ってまぐわいをしました。そして、一人の子が生まれたのです。そこで、兄に「私は伊豆志袁登売神をものにしました」と言いました。
しかし、兄は弟が伊豆志袁登売神と結婚したことに気を悪くし、約束を破り、宇礼豆玖の物を償いませんでした。
そこで愁えて母に申し上げると、母親は「私たちが生きている間のことは、よく神に習うべきです。なのに、その物を償わないのは、現実の人間に習ったのでしょうか」と言いました。
このように答えると、母親は兄の方を恨み、伊豆志河の河島(中洲)の一節の竹を取って、節目の荒い竹籠を作り、川の石を取り、塩と混ぜ合わせて竹の葉に包み「この竹が萎れるように、萎れよ。また、この潮が引くように、体が干からびよ。また、この石が沈むように、衰弱してくたばれ」と呪いの言葉をかけ、竈の上に置きました。
こういうわけで、兄は八年の間、干からび萎れ病んで衰えました。そこで、兄が憂い泣いて母親に許しを求めると、母親はその呪物を竈の上から取り除かせました。すると、その身は元どおりに安らかに治まりました。これが「神うれづく」(当時の成語か)という言葉の発祥です。
『古事記』はここで、応神天皇の子孫について記しています。品陀天皇(応神天皇)の御子の若野毛二俣王が、その母の妹の百師木伊呂弁、またの名は弟日売真若比売命を娶って生んだ子は大郎子、またの名は意富富杼王。次に忍坂大中比売命。次に田井之中比売。次に田宮之中比売。次に藤原之琴節郎女。次に取売王。次に沙禰王。併せて七柱。意富富杼王は、三国君、波多君、息長坂君、酒入君、山道君、筑紫之米多君、布勢君らの祖です。
また、根島王が庶妹の三腹郎女を娶って生んだ子は中日子王、次に伊和嶋王。併せて二柱。また、堅石王の子は久奴王です。
品陀天皇(応神天皇)の御年は百三十歳。甲午年(西暦394年)九月九日に崩御あそばされました。御陵は川内の恵賀の裳伏岡にあります。(比定地:大阪府羽曳野市誉田、陵名:恵我藻伏岡陵、古墳名:誉田山古墳・誉田御廟山古墳)